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2009年5月

2009年5月31日 (日)

出雲佐々木氏について(補足3)

 塩冶氏初代の頼泰は「三郎」であったが、その嫡子貞清と庶子秀時はいずれも「次郎」である。祖父泰清(次郎)を意識してのものであろう。その意味で正応元年の「又次郎」がこの両者のいずれかの可能性はあるが、問題なのは、なぜ若槻氏が支配していたのかという点である。この時点ですでに塩冶郷内なら、当然塩冶氏が支配しているはずである。
 次に古志氏については、初代義信は「九郎」であるが、その息子のうち嫡子宗信と庶子貞義はそれぞれ「孫次郎」と「彦次郎」なのである。そしてなにより、系図の記載からみて鎌倉末には貞義が「葦渡」を称しているのである。宗信については「正中3年3月29日」に出家したと記されている(佐々木系図)。この前日に守護貞清が死亡しており、それにともなうものであった可能性が高い。この点(守護との緊密な関係)を踏まえると、正応元年の又次郎は古志宗信ではなかろうか。吉信の出家の時点で、葦渡は弟の貞義に配分され、貞義が葦渡氏を称したと考えたい。問題は、薗が古志氏から塩冶氏の支配に変わっていることであるが、ここでも注目されるのは、古志初代の義信が富田義泰の娘と結婚していることである。義信の子で「義」を付けるのは「貞義」のみで、且つ、庶子で「次郎」を付けるのも貞義のみである。宗信は富田氏初代義泰の娘が母と記されるが(佐々木系図)、貞義についても同様であろう。宗信は義泰の嫡子師泰の娘と結婚している。
 宗信の嫡子高雅が「次郎」であるのに対して、庶子秀信は「福依九郎」を称している。「九郎」は祖父九郎義信によるものであろうが、問題は「福依」である。そして秀信の孫信高には康暦2年3月8日に「富田庄新宮城討死」とある。この点に、さらに古志氏と富田氏の2代にわたる婚姻関係をみれば、福依は富田庄内「福依」であろう。富田城の2㎞上流の地点で富田(飯梨)川は2つに分岐する(ここで飯梨川本流と支流の山佐川が合流)するが、分岐する直前の地点に福頼橋が架かっているのである。尼子氏の家臣としてみえる福頼氏もこの地域に関係する武士であろう
 話がそれたが、富田氏との関係から古志氏惣領は観応の擾乱期において反幕府方となり、明徳の乱で動乱が終了した時点で、古志郷は庶子が継承したが、薗は塩冶氏に与えられたのではないか。以上により、正応元年の「又次郎」は古志氏の可能性が高い(了)。

出雲佐々木氏について(補足2)

「中世の郡について」の項で正応元年(1288)11月の将軍家政所下文について述べた。在京奉公の労により某氏「又次郎」が出雲国神門郡薗内外と葦渡郷内門田3町などを獲得したというものである。この「又次郎」が誰かについて論じてみたい。「島根県の地名」の芦渡村の項では東国御家人小野氏(神西氏もこの一族)の所領とするが、「小野」の部分は明らかに異筆で、後世の追記である。「葦渡」の部分も追記との評価があり(大社町史)、注意が必要だが、以前写真版を見た際には、この部分には特に不自然さを感じなかったので「葦渡」との前提で述べてみたい。
 薗と葦渡は文永8年の出雲大社三月会結番帳にはみえず、鎌倉期以降に所領として認められ、東国御家人若槻氏が地頭となっていたが、何らかの理由で没収され、今回、又次郎に与えられた。薗については後には塩冶郷内に含まれ、15世紀前半には、同郷内栃島とともに塩冶氏の庶家(後の波根氏)がこれを支配していた。一方、葦(芦)渡は、古志初代義信の子貞義が「葦渡彦次郎」を号しており、鎌倉末には古志氏がこれを支配していた可能性が高い。とすると、「又次郎」は塩冶氏ないしは古志氏ではないかとの推定が可能となる。それぞれその可能性を確認してみよう。

出雲佐々木氏について(補足1)

 評定衆となった時清の孫が清高で、後醍醐天皇が隠岐に配流されると、隠岐国守護に復帰し、その警固にあたった。後に隠岐を脱出した後醍醐を船上山に攻めるが敗北し、六波羅探題一行と鎌倉へ逃れる途中、近江国番場寺で一族とともに自害した。生き残った清高の弟秀清の系統が隠岐氏を称して隠岐国で存続していく。
 建武政権では富田義泰の子師泰が健在で、雑訴決断所の役人となるとともに、美作国司と守護を兼任しているが、建武3年に死亡している。その嫡子が富田秀貞で、高貞・師宗とは同世代である。「師宗」の「師」は父宗義の実兄富田師泰にちなむものであろう。佐々木氏一族の佐世貞義と古志高雅の母はいずれも師泰の娘であり、高岡宗泰亡き後は、師泰が一族の長老であった。また、佐世貞義は美談氏の女性と結婚しているが、「富士名判官義綱」の名で知られていた雅清の妻も美談氏出身であった。
 話が佐々木氏一族全体に拡散したが、ついでに補足すると、塩冶高貞の兄弟「寂阿」の一流が大原郡廣田庄を獲得して廣田氏を名乗る。また、佐々木泰清の長子義重が土屋六郎左衛門尉の娘と結婚した関係で、その子重泰の一流が土屋氏領大東庄を継承して、戦国期の馬田氏につながっていく。
 ともあれ、守護塩冶高貞が謀反の疑いで討伐された際には、塩冶氏一族だけでなく、高岡師泰とその子も討ち死にや自害に追い込まれている。そのためか、正平10年(1355)の鰐淵寺大衆条々連署起請文には、鰐淵寺の仏像修復の大檀那として高岡師宗の母高岡禅尼尼念智の名前がみえている。
 塩冶高貞の所領の一部は、弟時綱の子孫に継承されていく。時綱の子義綱は山名満幸と結び付きを強め、明徳の乱で没落していく。これに対して通清流が存続し、塩冶氏を継承していく。富田秀貞や富田氏と関係の深い佐世氏、羽田井氏、古志氏の中には、観応の擾乱時に反幕府方に転じ、幕府方の勝利によりその子孫は山名氏の領国へ移っていった人々が少なからず存在した。明徳の乱後に出雲国守護を安定的に確保した京極氏は、朝山氏と多禰氏に代表される国衙勢力とともに、出雲佐々木氏のかなりの部分が没落した跡の所領を獲得し、その支配を開始していくこととなった。

出雲高岡氏について(2)

 高岡氏が苗字の地とした高岡村は塩冶郷北側を西流する斐伊川沿いに新たな開発地として成立した所領であった。同じく成立した荻原村を譲られた一族は荻原氏を称している。そして、高岡宗泰は、父泰清と兄時清のもとで隠岐国守護代を務め、時清が鎌倉幕府評定衆となると、隠岐国守護となるとともに、出雲佐々木氏内の長老として重要な位置を占めた。
 高岡氏系図によると、宗泰は建長7年(1255)に京都で誕生した。文永11年(1274)には異国警固番役で筑前国黒崎へ赴いている。国造家も黒崎で番役を勤めたことが知られ、出雲・隠岐国人は黒崎防衛にあたったのだろう。弘安10年(1287)に父泰清が死亡すると、塩冶郷内高岡村を配分され、以後高岡氏を称する。
 守護佐々木氏と鰐淵寺との関係は緊密で、泰清・頼泰・貞清と代々の守護が所領を寄進しているが、宗泰も永仁5年(1297)には高岡村の田1町を寄進している。そして、嘉暦元年(1326)2月に鰐淵寺が炎上すると、6月には再建への協力を述べた書状を送っている。宗泰の甥で出雲佐々木氏惣領貞清(守護)は、この年3月に死亡している(佐々木系図)。そしてその後を追うように7月15日に宗泰(覚念)も72才の生涯を終えた(高岡氏系図)。
 宗泰には養子宗義がいたが、「八郎」のままで任官しておらず、養父宗泰に先立ち死亡した可能性が大きい。そのため、鰐淵寺再建や出雲佐々木氏の命運は、貞清の子高貞と宗義の子師宗など次の世代に託された。

出雲高岡氏について(1)

 出雲佐々木氏の内、乃木氏について述べた文章で、筑前入道にも言及し、富田秀貞の美作国守護代羽田井高泰の子筑前守貞高であろうとの説を述べたが、その文章でも引用していた高岡氏系図(HP西日本系圖大観)を再度みて、高岡宗惟について「佐々木筑前守、備後国守護代」と記されていることに気づいた。高岡氏系図の信憑性は高いと評価できるのでこの点について述べたい。
 備後国守護代佐々木筑前入道が確認できるのは応永10年(1403)で、これに対して宗惟の生年は1387年である。その父國宗は1361年の生まれで、応永10年段階で「入道」でもよいが、宗惟はまだ17才である。また父國宗は「右近將監」とあり、筑前守となったことは確認できない。
 以上の点から、応永10年の筑前入道はやはり羽田井貞高であり、その後、以下に述べる富田秀貞との関係もあり、「備後国守護代」と「筑前守」が高岡氏に継承されたのであろう(とはいえ、この点は確実な史料では確認できない。また、高岡氏系図も全体としては信憑性が高いが、HPでしか確認できず、HPのものには後の解釈も加わっているようにみえる箇所有り)。
 宗惟の父國宗は富田秀貞の娘を母とする。その関係で、宗惟の兄弟貞直は富田貞清の養子となり、この系統が秀吉の家臣、次いでは徳川氏の旗本となって存続していく。高岡氏は初代宗泰から富田氏との関係が深かった。宗泰の娘が富田氏初代義泰の嫡子師泰と結婚し、義泰の子八郎が高岡宗泰の養子となって宗義と名乗った。
 宗義の嫡子師宗は、1341年に守護塩冶高貞とともに自害した。師宗の子の内、幼かったため助命された2人の男子の内の一人が直宗で、富田秀貞の娘と結婚し、生まれたのが國宗である。高岡氏は「宗」をアイデンティティとしたが、仕えた山名氏の惣領持豊の法名宗全の「宗」を忌避して宗惟の嫡子宗仲が重仲と改名した。
 高岡氏系図は、以上のように、出雲国から山名氏領国に移住した国人の記録としては極めて詳細であり、その全貌が公開されることを希望したい(続)。

2009年5月29日 (金)

神魂神社と秋上氏(5)

 次いで、天文11年10月には、北島雅孝が秋上周防守に宛てて、秋上職代官給恩などを孝重に返付ることを伝えている。「孝國」が「孝重」に名前を変更したのだろう(天文15年の史料には「秋上周防守重孝」とみえる)。個々の所領が一族間などで売買されたことを受けての処置であったと思われる。これに対して、天文13年には「七郎」が登場し、天文20年には「神主」としてみえる。周防守孝重の子であろう。天文15年には富田衆本田家吉が神魂御湯立を誤って武家方の秋上三郎右衛門尉に伝えたことを、訂正せよと一族の八郎左衛門尉に命じている。併せて、社方の七郎にも連絡することを命じている。
なお、天文19年の出雲大社造営の神事の参加者には「秋上周防守」と「秋上七郎」の名がみえる。
 これとは別に、弘治末年から永禄年間にかけて「大炊助久國」がみえるが、永禄8年にみえる「別火久國」と同一人物であろう。永禄8年以前に別火氏が没落したのを受けて、秋上氏一族が別火の地位を占めたのだろう(弘治3年7月に尼子晴久が秋上大炊助を別火職に補任した文書について、検討の余地ありとされるが、特に問題はないのではないか)。永禄5年には毛利氏の尼子攻めが開始され、秋上氏の対応も分かれたことが予測できる。尼子方(武家方)の三郎衛門跡は、毛利氏から秋上彦四郎に与えられ、それをうけて北島氏が安堵している。社方の秋上周防守孝重は、子ではなく孫の與四郎良忠にその地位を譲っている。
 孝重の後継者「七郎」が天文20年以降はみえず、早世したのであろうか、周防守孝重が神主に復帰するとともに、秋上大炊助久國が前面に出てくる。久國も孝重の子で、別火職となるとともに、孝重を補佐したのであろう。

※当初「秋上文書」のみで記したが、佐草文書などその他のものを参照して増補し、(2)以降は改稿した。

2009年5月25日 (月)

神魂神社と秋上氏(4)

 その後、永正14年(1517)から秋上大炊助経安は、2年前に尼子氏から人夫を出すことを求められたことを契機に、神主を子である孫四郎孝國(後の孝重)に譲り、自らは軍役を負担した。後に孝重は、永正11年に尼子氏より非文の天役を懸けられ、両国造家より大庭は守護不入の地だと主張されたが、結局神主として北島分代官職を手放したとする。一方、この前後から、秋上氏の務める権神主に対し、千家方と結ぶ別火宮畠氏の攻勢が強まり、神主孫四郎の母を巻き込んで作成した謀書により神主の地位を奪取しようとした。このことが、大炊助経安が尼子氏と結んだ背景であったかもしれないが、永正18年(1521)には北島雅孝から秋上孫四郎にその地位については尼子氏に訴えて安堵してもらったことが伝えられている。そして大永2年(1522)暮には尼子経久が、秋上職が退転したが、秋上与五郎に改めて申し付け、神魂と六所神社を委ねるとしている。そして翌3年には北島雅孝が、両神魂と惣社の神主職の徳分を秋上大炊助(経安)に安堵することと、秋上職を兄弟で分けることが伝えられている。兄孫四郎(周防守孝國、系図では孝重)は神主となり、弟(三郎右衛門尉幸益)は、北島氏代官分の土地を支配し、軍役を負担した(富田衆であるかは?)。この兄弟と前出の大永2年の与五郎の関係は不明であるが、幸益と同一人物か、あるいは孝國の別の子であろう。
 大永5年に秋上大炊助孝國が、自分の子孫でなくては社役を持ってはならないとする置文を作成している。これに対し享禄3年(1530)に「秋上周防守」がみえるが、この時点で孝國はなおも「大炊助」であるので、その父経安(重)が孝國が「大炊助」となった時点で「周防守」となったのだろう。これに対して天文2年(1533)に北島雅孝から両神魂・惣社徳分などを安堵されている「秋上周防守」は本文にみえる「孝國」である。

神魂神社と秋上氏(3)

 そして延徳2年(1490)には大草の八郎大夫と六郎大夫が惣社御神領内田畠を、秋上大炊助に売却しているが、この人物は文明年間の大炊助と同一人で、延徳3年の史料では「秋上大炊助益綱」とみえる。すなわち、佐草泰信と新六が大庭内田畠を一期の間、秋上大炊助に売っている。
 一方、神社の文書には、寛正6年(1465)2月の「清水大炊助」宛と、文明8年(1476)の「清水七郎」宛の売券が残されている。「大炊助」と「七郎」は秋上氏一族で清水氏を名乗っていたが、新たな惣領となったため、清水氏関係文書が神社に残ったのだろう。大炊助の子が七郎で、後に父と同じ大炊助となり、文明12年には秋上氏の惣領となったのである。
 永正元年(1504)には宮畠與四郎が大庭保内の田畠を秋上大炊助に売却している。その翌年(1505)には平浜八幡庄寶光寺に対し「秋上大炊助経重」が岩坂勘納谷の田2反を寄進している(迎接寺文書)。「勘納」(神納)は、国造が熊野で祭司を行っていた際に神魂神社の前身となる施設があった場所であるとされ、秋上氏にとっては重要な場所である。この人物が秋上氏惣領であろう。前出の大炊助益綱が周防守となり、代わってその子が大炊助となったのだろう。「大炊助」を名乗る点とともに、尼子経久と同じ「経」を名乗る(経安も)のも注目される。基本的に、神社のある大庭保は室町期には守護京極氏領であったと考えられ、当然尼子氏もそれを継承(京極政経は永正5年没)したであろう。

神魂神社と秋上氏(2)

  次いで系図では文明の頃の「秋上周防守益綱」と永正年間の「大炊助経安」を記す(大社町史)。ただ、「意宇六社文書」所収の秋上氏系図では両者の間にもう一人「経安」が記されている。「大炊助経安」の子の代に、尼子経久の強い要請で神主家と武家に分かれることはよく知られている。
 古文書はどうかというと、享徳3年(1453)の秋上知行田畠注文写の奥書に「秋上周防守盆(益)綱」とある。戦国期の秋上氏惣領が「周防守」を称しているのは、この益綱の先例にならったものであろう。この前年享徳2年には守護京極持清が、神魂社に対し守護役と郡検断を停止している。北島氏ではなく「権神主」宛となっている点を除けば、形式内容とも問題は無いように思われる。一方、寛正年間には「大炊助」と「秋上殿」に対して屋敷地と田畠を売る売券が残されている。「大炊助」は寛正6年の売券の宛所にみえる「清水大炊助」と同一人物であろう。これに対して「秋上殿」は文明2年にみえる「権神主秋上榮國」となろう。
 そして文明12年(1480)に北島高孝が、秋上大炊助を大庭保知行分の代官職元の如く宛行うとしている。翌13年の高孝宛行状では。榮國が北島分田地を売却したため、北島氏代官を解任され、複数の他の人物に所領の管理を委ねたが混乱が生じ、秋上次郎左衛門(榮国であろう)が納めるはずであったものを、同族の大炊助に催促することがあり、北島氏がその行為を「違乱」であるとした上で、大炊助を代官職に補任している。

神魂神社と秋上氏(1)

 神魂神社本殿についてはすでに述べたが、この神社と神主秋上氏にはついては、井上氏の研究があるが、なお課題が残されているように思う。代々の神主については、系図が残されているが、それが古文書の誰に比定できるかが、不明確なのである。とりあえず、古文書からどこまで確認できるかについて、整理を試みたい(史料の出典は神魂神社文書以外のみ表記)。
 秋上氏は本来、神魂神社神主北島国造家のもとで権神主をつとめていたとされる。ただ、井上氏の説かれるように北島側が優位に立っていたとはいえ、神魂神社には千家側も権利を有していた。秋上氏のライバルとして登場する宮畠氏や菅井氏など千家方の神官もいた。実際には千家方神官の比重も大きかったが、結果として秋上氏関係史料のみが残っていることに留意しなければならない。また、秋上氏(藤原姓)も複数に別れており、一族が権神主以外の神官を務めていた。国造家分裂時に北島家への功績と討死したことで、浄音寺が建立され、杵築にも所領を与えられた「権二郎」も秋上氏一族で、後にその子孫が絶えたため、浄音寺と杵築の所領は秋上氏惣領が獲得した。
 秋上氏に関する最も古い史料は、嘉吉3年(1443)6月の秀尊譲状で、そこでは秋上三郎左衛門尉藤原末國一跡が、秋上助六榮國に譲られている。そして同時に北島高孝(当初、意宇六社文書に従い、秀尊としたのを訂正。HPはもとのまま)が、秋上給分と代官職を助六に預置いている。末國は応永21年(1414)の大草郷坪付に署名しており、秋上氏系図に記す「末國-秀尊-助六」という系譜を想定するのは妥当であろう。

2009年5月24日 (日)

Windows7導入の顛末(5)

 以前導入したWindows7のRC版が公開されたので、とりあえずインストールしてみた。インターネットとソリティア程度しか使っていないが、VISTAよりは軽快で、シングルコアでも使える。そのうちの一台(富士通)は4月に大学へ進学した子に与えたので手元にはない。XPとのディユアルブートだが、使用期限が来る前に「7」を消去しなければならない。デルの方は、HDDに領域を確保してインストールしたが、起動せず。前と同様にHDDそのものを交換してCドライブにインストールしたら問題はなかった。だが、仕事をするため、少し使って元のXPのHDDに戻した。32ビット版と64ビット版をデスクトップ機でディユアルブートとしているが、あまり使用してはいない。
 HP公開に備えてATOM330の自作機(クレバリーで販売しているものを参考)にWindowsホームサーバーをインストールしたが、常時接続はしていない。「7」にはリモートデスクトップが標準であるが、ホームサーバーとの接続が可能かはまだ試していない。
 パソコンの利用の中心は文章作成なので、ノングレアの液晶がよいが、最近はほとんどない。PRECISION M6300などが良いが、もうオークションでも入手できない(先立つものもない)。17インチWUXGAに慣れてしまうと、普通の液晶では狭い。とりあえず、17インチWUXGAのモニター(ショップブランド)の中古をオークションで手に入れこれを使うことにしているが、光沢液晶で、写り込みは気にならないが照度を下げてもなお明るい。ノングレアの方が目の疲れは遙かに小さい。

鰐淵寺と清水寺の座次相論から(4)

 両者の主張は清水寺の方が具体的である。鰐淵寺側は出雲大社での万部経読経の際に左座であったことを除けば、鰐淵寺が清水寺より歴史が古いことを強調する。また、清水寺が天文6年(1537)に綸旨を得ながら、天文19年(1549)月21日に梶井門跡令旨を得ていることと、その内容について疑問だとして批判する。ちなみに天文19年といえば、尼子氏による出雲大社造営が行われた年である。
 6月末に出された裁定は清水寺を左座とする綸旨であった。ただし、この史料そのものは清水寺の中世史料がほとんど失われているため、みることはできない。ところが、これに反発する鰐淵寺側は、幕府・比叡山関係者へ働きかけ、11月には6月の綸旨を否定して鰐淵寺を左座とする新たな綸旨を獲得する。6月の綸旨はまがりなりにも両者の主張する根拠を吟味したものであったろうが、11月の再度の綸旨は政治的な色合いの強い物であったろう。これに対して、清水寺側も翌年春までに再度梶井門跡に働きかけ翌年春には再び清水寺左座の綸旨が出された。この後は鰐淵寺側の働きかけを示す史料のみで、綸旨は残されておらず、通説とは異なり清水寺勝訴で終わったこととなる【この部分は訂正した。20100816】。
 この問題は様々な観点からの分析が可能であろうが、とりあえず、重要な決定がなされた時期が尼子氏にとってどのような時期であったかについてのみ触れた。更新が滞ったのは更新するヒマもネタもなかったたためである。

鰐淵寺と清水寺の座次相論から(3)

 鰐淵寺が座次問題を訴えた天文24年2月は、国外遠征が計画されていた訳ではないが、読経が催されたのだろう。そこで、鰐淵寺側から尼子氏の動揺をみすかすように左座の要求が出されたのだろう。尼子氏の裁定は清水寺が左座であり、そのため鰐淵寺は参加を拒否し、幕府や比叡山などの中央の上位権力に訴え、同年5月には鰐淵寺を左座とする後奈良天皇の綸旨を獲得した。
 尼子晴久が清水寺を左座としたのは、清水寺が主張するように、尼子経久が千部経読経を開催する際に左座であったこととともに、天文6年の清水寺を左座とする綸旨の存在が大きかったであろう。これに対して、鰐淵寺は、その歴史の古さとともに、経久が出雲大社で行った万部読経では鰐淵寺が左座であったことを主張したであろうが、それより時代が新しい天文6年の綸旨の前に破れたのだろう。そのため、さらに新しい後奈良天皇の綸旨を獲得した。
 そうなると尼子氏としても対処に苦慮し、翌弘治2年(1556)6月に法事が計画されており、それまでに決着を図るため、両寺(とくに清水寺)に上洛して朝廷の裁定を受けることを要求したのだろう。そのため、5月から6月にかけて、両寺の三問三答状が提出された。天文6年の綸旨は現在は清水寺に写しがあるのみで、それについて井上氏は明確な偽文書であるとされる。現在の写しそのものは原本が失われた後に作成されたものであろうが、事実が無かったとまではいえないのではないか。

鰐淵寺と清水寺の座次相論から(2)

 天文14年8月はどのような時期であったかというと、6月には尼子氏に対して安芸国の吉川興経から出兵の依頼が届いていた。大内方と尼子氏の間で揺れ動いていた興経であったが、富田城攻防戦から帰国した安芸国大朝庄の周辺は大内・毛利方が多く、尼子氏の軍事力による大内方の切り崩しを期待していた。これに対する晴久の返事は積極的なものではなく、「他国出陣」の対象は吉川氏方面ではなかったと考えられる。そして同年12月には三沢氏の本領横田庄について条々を定めている。
 その10年後の天文24年2月は前年11月に新宮党を滅ぼした3ヶ月後である。また、『尼子氏史料集』では天文21年12月3日に晴久が修理大夫に補任された史料について特に注記がないが、前後の史料をみると、晴久は天文23年段階でも「民部少輔」であり修理大夫補任が確認できるのが天文24年2月なのである。関係史料から確認できるのは天文21年12月に従5位となったことまでである。この前後の晴久は出雲国内の神社や伯耆国大山寺での造営事業を行っている。そして天文24年2月28日には、出雲大社・日御崎社・揖屋神社に対して、所領の寄進を行っている。表面上は修理大夫任官に伴うものであるが、これもすでに述べたが、新宮党への除霊の意味もあったと思われる。明確な計画を持っての討滅でなかったため、大きな戦闘には至らなかったが、精神的には強い動揺があったと思われる。

鰐淵寺と清水寺の座次相論から(1)

 この問題については、井上氏の研究に対して、近年、研究会で佐伯徳哉氏から新たな提起がなされた。その内基本となる、文書の年次比定については、『大社町史』と『出雲尼子氏資料集』は主に井上・長谷川両氏の理解に基づいているが、佐伯氏により精度が高められたと考える。
 尼子晴久について述べた文章で、経久時代の出雲大社における三万部読経は国外遠征のプレイベントであったことを述べた。鰐淵寺は相論の三答状の中で、経久が法華経を信仰し、敵を滅ぼして得た所領の年貢とともに、千部・万部の読誦や経典を写したものを寄進したことを述べている。
 晴久時代がどうであったかは不明だが、とにかく、天文14年仲秋(旧暦8月)に富田城で千部経の読経を催した際に、左座をめぐって鰐淵寺と清水寺の対立が発生した。その場は読経が延引するのをふせぐため「乱座」で収めた。実際、晴久は直後に他国へ出陣し、そのため、明確な決着を図ることはできなかった。ここから、読経がやはり国外遠征のプレイベントであったことがわかる。その後の処置については、清水寺は自らが左之後座、鰐淵寺が右之後座であったと主張するが、鰐淵寺は対座ではなく乱座であったとする。再度この問題が浮上したのは天文24年2月であった。

2009年5月10日 (日)

秀行死す

 標題の「秀行」氏で検索し、本ブログを訪れた方があった。確かに、岸本左一郎の『活碁新評』に収録された手筋が、氏の「基本手筋事典」(上)にたくさん収録されていることを述べていた。左一郎から秀行へと受け継がれたものを次に継承するのは誰であろうか。
 子どもの頃、家に読売新聞があったため、意味もわからず囲碁(名人戦)・将棋(十段戦)欄をみていた。秀行氏は常に挑戦権を争う位置につけていた。記憶を記録で補強すると、林海峰が名人位を、高川格氏と秀行氏に奪われながら、リターンマッチで取り戻していた時期だ。1968年から72年までのことだ(70年秀行氏奪取、71年林氏復帰、72年秀行氏挑戦失敗)。林時代が続くと思われた74年に林氏より6才下の石田芳夫氏が前年に続く2回目の挑戦で名人位を奪い、時代の転換期となった。
 林氏より18才年長の秀行氏も旧世代となったかにみえたが、さにあらず、名人戦の契約更改問題のもつれから、新たな最高棋戦として創設された第一期棋聖戦は、秀行氏と関西棋院の総師橋本宇太郎氏の番碁となり、見事、秀行氏は棋聖6連覇のスタートを切った。この年東京の大学に入学した自分は、有楽町の読売ホールであった第1期棋聖襲位式に参加した。
 この後のことは、各記事に譲るとして、是非とも確認しなければならないことは、豪快な人柄が強調されるが、若い頃の秀行氏は囲碁漬けの生活をおくっていたことだ。後に、酒と競馬を知り、時にはそれらにおぼれることもあったが、若き日の猛勉強(考えていて駅のホームから転落したこともあったはず)がその基礎にあったことである。
 やはり、秀行氏で印象的なのは、中山典之氏の筆になる第2期名人戦で坂田氏に最終局で敗北した氏の姿であろう。「けさ、この階段を昇ってきたときは、確かに名人であった。いま、無冠の八段となり、満身に宿敵坂田の笑声を浴びながら、この階段を降りて行く‥‥」(「昭和囲碁風雲録」下より引用)。天寿を全うした生涯といってよかろう。

2009年5月 9日 (土)

水損と再開発

 直江における荒野開発とその所領の寄進について述べたが、同様の例に永仁5年(1297)の佐々木宗泰による塩冶郷内高岡の田1町の寄進、翌永仁6年の多胡(惟宗)頼直による平田保内田3反の寄進、乾元2年(1303)の守護佐々木貞清による、生馬郷内田1町、志々墓保内田1町の寄進がある。いずれも河の流域の周辺荒野が開発され寄進されたものであろう。
 高岡は塩冶郷内に新たに成立した土地で、その北側を斐伊川西流路が流れていた。平田保もその南側を斐伊川東流路ないしはその支流が流れていた。志々墓保も斐伊川東流路南岸の地であった。生馬は現在の松江市北側にある。東国から入部した地頭が河川沿いの低湿地の開発を進めたことについては、石井進氏が明らかにされた。
 これに対し、斐伊川東流路北岸の国富庄は鰐淵寺領であったが、そのうちの和多坊の経田(曲戸に所在)が14世紀後半には水損により、1町中の半分にあたる5反が砂浜になったことが知られる。それが百姓の手により再開発されたのを知った和多坊側は幕府に30余年訴えて、文安年間(1440年代)には取り戻すことに成功した。斐伊川沿いの土地では田の水損と再開発が何度となく行われていたのだろう。和多坊の経田は国富郷内「中津」にもあり、これも川沿いにあったのだろう。

※「中世の直江」について、平顕棟を「宗尊親王の母の一族」と訂正。

2009年5月 7日 (木)

資料の声を聴く?

 しばらく更新ができなかったが、尼子氏についてこのブログを取り上げているものを読む機会があった。本ブログでは「尼子晴久」などと題名につけてはいるが、晴久について論じるだけの史料は残されていない。論文で大胆な仮説に基づき論じているものもあれば、軍記物のように勧善懲悪や結果論の観点から述べているものもある。前者と後者を一緒にするわけではないが、本ブログは、これまでの研究には、精度の点で課題があることを述べている以上のものではない。ブログは総合的なものではなく、個々の分析を述べているだけなのである。
  ブログの題名のように「資料の声を聴」いた上で歴史の論を展開すべきであり、自己の論に合わせて都合の良い資料を利用すべきではない。あまりに根拠にこだわれば、何一つ論を展開できないとの批判的意見はあろうが、やはり他者にも納得できる根拠を示すべきである。
 筆者は差別の問題にも強い関心があるが、不特定多数が読むことのできるブロクで議論を展開する前提条件はまだない。そうした中、「無資格・無学歴」を標榜する方の差別問題のブロクを見ることがあるが、通説に安住することなく、みずからの目で史料を吟味し論を展開していることはまちがいない。
 マルク・ブロックもその著書の中でけっして好古家にならないように述べているが、すべての歴史に関心を持つ人々が、通説を自分の目で確かめた上で論を展開したら、研究全体のレベルは大変向上すると思われる。三人寄れば文殊の知恵なのである。
  なお、本ブログは大学時代に取った杵柄で「中世史」が多いが、一番関心のあるのは、近世から近代への移行期の問題である。言い方は悪いが、考古学よりも中世史よりも、はるかに「今を考える素材」が満ちているように思う。それぞれの分野が必要なのは言うまでもないが。

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