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2009年4月

2009年4月30日 (木)

長田郷と長田氏(3)

 長田郷で注目されるのは、13世紀末の段階で、「市成村」と「市庭村」がみえることである。ともに市の存在を前提とする地名であるが、それは西長田郷が大橋川に面していたことによる。長田郷が東西に分かれているが、こと水運との関係では西長田郷こそが重要な所領であった。
 市成村は「西長田郷所領目録」にもみえるが、「市庭村」はみえない。ただ、「西長田郷所領目録」の所領の記載順番をみると、「多禰分」に相当すると思われる。そして「川津」は、旧市庭村のうち、西長田郷を流れる朝酌川が大橋川に合流する付近に所在した。
 永仁7年の長田昌重の所領は、その表記に着目すると、市成村は一円支配であるが、菅田村・市庭村・芝尾村についてはその一分のみを譲られていたと思われる。父昌元領がその子たちに分割して配分されたのである。そしてその所領は一旦は没収されて同族の長田雅綱が得たが、処分が誤りであったとして、昌重の子貞昌に返還された。そして14世紀中頃(貞和2年)には、美保郷と長田西郷、安田郷などが杵築大社三月会の頭役を負担したが、これに関連して、美保郷と長田西郷の一分を支配していた沙弥覚照(羽田井高泰、一族富田秀貞が美作国守護の際の守護代で、後に秀貞とともに反幕府方となる)の書状とともに、朝山氏惣領義景が、三月会を担当する国衙の最高責任者の立場から、頭役を無沙汰している安田庄・長田西郷に沙汰することを命じており、この時点では両所領は朝山氏領ではなかったことがわかる。このうち、安田庄は文和3年(1353)には朝山氏が勲功の賞として与えられているが、貞和2年段階では他氏の所領であった。

長田郷と長田氏(2)

このことを裏付けるのは、長田西郷と東郷のその後の支配者である。東郷は南北朝期には朝山氏が支配したのに対し、西郷は守護関係者が支配している。東郷の長田氏は勝部宿禰一族でも朝山氏流に属し、西郷は多禰氏流に属したのではないか。このように支配が分かれたのは本来この地を支配していた「長田氏」が没落し、その跡が同族の朝山氏と多禰氏で分割されたことを意味する。大伴氏系図をみても、惟元流朝山氏に「綱」を付ける人が何人もみられるのに対し、資元流多禰氏には系図を残した重綱とその子泰綱のみである。
 いずれにせよ、両長田氏は没落し、前述のように、東長田郷は惣領朝山氏が支配し、西長田郷は守護が支配したが、一円ではなく、内部は小さな所領に分かれていた。。
 西長田郷と多禰氏の関係を物語るのは、戦国期に作成されたと思われる「西長田郷所領目録」(多胡家証文)に、西長田郷内所領として「多禰分」がみえることである。守護関係者とともにその一分は資元流惣領多禰氏に与えられたのではないか。しかし、その多禰氏も14世紀半ばには多禰郷が兵粮料所として朝山氏に与えれているように、反幕府方となり没落した。その跡はやはり出雲国守護京極氏との関係が深い多賀氏が支配しする。多賀氏の支配は毛利氏のもとでは東長田郷にも及んでいるが、最初に関わりを持ったのは西長田郷であった。西長田郷坪谷村は鎌倉時代の守護塩冶氏の一族で奉公衆となった塩冶政通が支配したこともあった。そして「西長田郷所領目録」を残した尼子氏近臣多胡氏も西長田郷の一部を支配した。

長田郷と長田氏(1)

 鎌倉時代に、島根郡長田郷(東西)と隣接する枕木保を支配した長田氏については、長田西郷を支配した一族の文書が、福島県いわき市の飯野八幡宮に残されている。八幡宮のある好嶋庄は幕府の有力御家人伊賀氏が預所となった関東御領で、現神主も伊賀氏の末裔である。具体的経過は不明だが、長田西郷を支配した一族が、鎌倉幕府の滅亡とともに没落したことと、幕府と関わりの深い八幡宮に史料が残ったことは関係していよう。出雲国の御家人の中には幕府や北条氏との関係を強め、鎌倉に館を有するものもあったであろう。
 文永8年には長田西郷地頭が長田四郎兵衛尉昌元、東長田郷と枕木保地頭が長田蔵人であった。注目されるのは、当時の西国御家人には無位のものが多い中、両者とも任官していることである。翌文永9年には、国造義孝が目代氏定と政元の狼藉を訴えているが、これが長田昌元と同一人物であろう。
 永仁7年、昌元の遺領は配分され、長田余一昌重が得た所領には4ヵ村が見えている。この昌重が嘉永元年には狼藉行為により所領を没収され、その跡は長田太郎左衛門尉雅綱に与えられた。このことは承久の乱などにより所領を没収されるのとは異なり、西長田郷に権利を有する同族から次の地頭が選ばれたことを示している、ただ大伴氏系図には長田昌元らはみえても、長田蔵人や長田雅綱は登場しない。同族ではあるが、やや離れた系統であろうか。

2009年4月19日 (日)

中世における郡について(3)

『遺文』3巻と4巻をみると、寺社への所領寄進状と、棟札・銘文で郡が付記されることが確認できた。塩冶義綱の寄進状も大社に対するものである。それ以外は郡を付記する例はみえない。ところが、6巻(5巻は未確認)となると、大内氏・益田氏と京極氏、ついで幕府文書で郡を付記するものがみられる。
 明徳2年、京極氏の家臣竹中越中守は島根郡佐陀庄之内山畠、田、屋敷を譲っている。佐陀庄の場合、島根郡と秋鹿郡にまたがった所領であった。ついで明徳3年2月には守護京極高詮が出東郡漆冶郷内津々志村半分を若槻孫兵衛尉に安堵しているが、これは寺社ではなく国人に対するものである。そして6月には「出東郡千家・北島」を出雲大社に寄進したのに続いて7月に、一族尼子氏に大原郡近松庄を与え、佐方氏には飯石郡多禰郷内戸野賀内分を旧恩として与え、三刀屋氏には三刀屋郷を安堵している。京極氏は寺社への寄進状ではなく、国人への安堵や給与の際にも郡名を付しており、意図してのことであると思われる。国人(塩冶氏)を守護代とするとともに、郡奉行を設置し国人を補任した可能性も高い。
 以上のような京極氏の状況は16世紀初めまで確認できる。では、京極氏の守護権を継承した尼子氏はというと、寺社宛の寄進状を除くと、所領名に郡を付記することはほとんどない。しいて言えば、尼子晴久が幕府から正式に守護に補任され、次いで修理大夫となった天文24年以降はその使用例が増える(多くは寺社宛で一部が国人宛)という程度であろうか。
 京極氏が補任した郡奉行もみられず、わずかに永禄12年8月に、米原氏が尼子方となることに伴い、当知行分と新たな給与分とともに「原手三郡奉行之事」がみえる。これが京極氏時代のものか尼子氏時代のものかは不明である。直臣多胡氏に「意宇郡紺役一円」などの権利を認めているが、郡をどれだけ重視したのかはやはり不明である。近世では郡百姓支配に重要な役割を果たしていたのとは異なっている。

中世における郡について(2)

 以前のブログで京極氏支配下における守護代と郡奉行について述べた。その時点では15世紀前半(応永末年ごろ)に京極氏の出雲国支配の再編・強化がなされ、一族宇賀野氏の守護代起用と国人領主の郡奉行への補任の開始を想定していた。ところが、応永末年を待つことなく、明徳の乱直後から急激に所領に郡名を付す例が増え、その中で「出東郡」も登場してくるのである。郡奉行の設置は14世紀末になされた可能性が高い。
 ブログ「出東郡の成立」の項では、斐伊川の流路変更が郡の縮小をもたらしたとし、その時期は井上氏の説かれる平安末期を想定していた。ところが、林木庄と出西郷の問題点と、郡記載の増加が室町初期以降となると、鎌倉中期にはすでに斐伊川が東流していた点は問題がないが、出東郡の平安末期成立説は明白な根拠に欠けると言わざる得ない。なにより郡そのものの意味が低下していたのである。
 ということで、鎌倉期については史料編纂所のデータベースを使用して出雲国について具体的郡名を含め検索したところ、建長6年の守護泰清の例のみ確認できた。南北朝期以降については、とりあえず『大社町史』と『南北朝遺文』・『尼子氏史料集』で確認してみた。
 『大社町史』により明徳の乱後に所領の前に郡を付する例が増加することと、当初は守護京極氏側が使用する例がほとんどで、しだいに国人層の寄進状でも使用されることが分かった。ただ、それ以前に、貞治3年(1364)に塩冶義綱が「神門郡塩冶郷内田地」を寄進している。義綱は山名氏が守護の時期に台頭した人物で、明徳の乱の直後には国内で反乱を起こし鎮圧されている。そこで、『南北朝遺文』の中四国編で確認することとした。

2009年4月18日 (土)

中世における郡について(1)

 古代に出雲郡に属した出雲大社とその周辺が中世には神門郡に属するとしたが、事情は単純ではない。直接それを示す史料はなく、井上氏の説に基づけば、①東側にある林木庄が13世紀後半には神門郡に属したことと、②13世紀初めに出西郷の成立が確認できることによる。②については、出西郷を含む出雲大社領の多くが神門郡に属し、出雲郡が縮小して出東郡が成立したとするのである。
 ②について問題があることはすでに述べた。さらには①の林木庄が神門郡に属した点も確認できない。その根拠となった正応元年12月の将軍家政所下文の「神門郡薗・林木地頭職」との読みについては、新修島根県史で初めて採用され、ついで鎌倉遺文がそれに続いたが誤読である。『大社町史』ではその部分が「異筆」である(後世の加筆)ことが記されているが、日御碕社ではその部分を「内外」と読み、「史料総覧」でも同様であった。以前、写真版をみたことがあるが、「林木」ではなく「内外」が正しい。
 次にその加筆がいつなされたかが問題となる。貞応2年石見国惣田数注文などのいわゆる大田文では、郡別の表記もなされるが、それを除けば、鎌倉期の所領名の前に郡名が付されることは、棟札や銘文を除けばほとんどない。平安後期以降、郡が有名無実化していたことが背景としてあろう。出雲国では建長6年に出雲国守護佐々木泰清が鰐淵寺に対して郡使の入部を禁止しているのが唯一の例であろうか。これについても、泰清の孫貞清は正中2年に、建長6年の泰清の状に任せて守護使の乱入を停止しており、実際は郡使ではなく守護使であった。

2009年4月12日 (日)

石見国における中世的所領の成立(4)

 そうした場合、問題となるのは国兼の活動時期である。従来の系図では12世紀初めの人物とする場合が多いが、国保・季兼との関係からすると12世紀半ばから後半にかけての人物となる。そうすると、源平争乱期の兼栄・兼高父子との間に記される兼真(季兼)が問題となる。この兼真には「案主大夫」と記され、一ノ谷合戦に石見国から参加した「安主大夫」と符合するのである(案主は記録を担当する官職で、衛門府などの中央機関か国衙かのいずれかか。大夫は五位であることを示す。平安末期の出雲国衙には案主所兄部がいた)。
 以上の2点(国兼が12半ばで兼栄・兼高が12世紀末)からすると、兼真は国兼の子で兼栄の兄弟である可能性が大きくなる。
 長野庄についても、季兼の前任国司である源国保が注目される。国保は村上源氏の一族雅国の子であるが、母は同族の師俊の娘であった。師俊の子師国は雅国の子公国を養子にしている。また、保元の乱で敗死した藤原頼長の子兼長の母も師俊の女子であるとされる。国保も摂関家との関係を背景に石見国守になり、その時期に長野庄の立券がなされたと思われる。それが保元の乱における頼長の敗北により、後白河院に関係する荘園に変更されたのであろう。長野庄惣政所が「国」を名乗る源氏であるのは、国保とその一族との関係であると思われる。

石見国における中世的所領の成立(3)

 益田庄は若山庄と同様に皇嘉門院領であるが、それだけでなく、源季兼は仁平3年には石見守であった。皇嘉門院の父藤原忠通が久安元年に石見国知行国主であったことは周知の事実であるが、12世紀中~後期の石見守はいずれも摂関家と深い関わりを持つ人物である。その中で季兼が注目されるのは、益田氏一族の名前に付けられる「兼」との関係である。季兼の一族と益田氏の系図を示すと以下の通りとなる。
俊兼‥‥‥‥季兼‥‥‥‥季長‥‥‥‥兼時
〈益田氏)
国兼‥‥‥‥兼実‥‥‥‥兼栄‥‥‥‥兼高
   ‥‥‥‥兼季‥‥‥‥兼時‥‥‥‥兼長
 一方、石州益田系図には、国兼の父宗季とその兄弟国季、国頼、国宗の名が記されている。兄で嫡子と思われる国季には「益田太郎」との注記がなされている。ここでも季兼の前任者で重任により8年間石見国守を務めた「国保」との関係が伺われるのである。従来不明であった益田庄の立庄と皇嘉門院への寄進に石見守源国保と源季兼が関わった可能性は極めて高く、その時期は12世紀中頃であると考えられる。

2009年4月11日 (土)

石見国における中世的所領の成立(2)

 石見国で益田庄と時を同じくして成立した庄園に、長野庄と大家庄があった。益田庄は本郷に対し、納田、井村、弥富、乙吉があったが、本郷の占める割合が6割強と高かった。これに対し、長野庄と大家庄では本郷に相当する部分の割合は4分の1にも満たず、多くの独立した所領を含んでいた。また、益田庄はすべて「兼」をその名に付けた一族が支配したのに対し、長野庄と大家庄は複数の氏が存在し、その中で長野庄は源氏(「国」を付ける)が惣政所となり、大家庄では藤原氏(「兼」を付けない)が惣公文の地位を認められていた。
 大家庄の領家については、安元2年11月に皇嘉門院領石見国大宅庄を与えられた藤原頼輔が確認できる。頼輔の女子が皇嘉門院女房であり、且つ九条兼実との間に良平をもうけていた。頼輔の子頼経は蹴鞠の名手として知られる一方で豊後守を務め、豊後国の武士を反平氏方に組織化することに成功したが、文治5年には義経との関係を疑われ、子の宗長(前出の宗長とは別人)とともに配流されている。その後宗長(難波氏)と弟雅経(飛鳥井氏)は関東に下向し蹴鞠を伝えて幕府に仕えた。寛元元年に幕府から大家庄惣公文職を惟行に安堵することを求められている「源次郎」は難波ないしは飛鳥井氏であろう。若年の源次郎が領家となったのに対し、惟行が幕府に対し安堵を求め、それを幕府が領家に伝えたのであろう。また、惟行は大家庄惣公文職を養父国知相伝の所職としており、その成立も国保の時代の可能性がある。

石見国における中世的所領の成立(1)

 ここしばらく、出雲国関係テーマが続いたので、ひさしぶりに石見国を採り上げてみたい。標題のテーマについては、江津市史(山根氏)、温泉津町誌(井上氏)の整理がある程度である。益田氏の成立についてもこの問題と切り離すことはできない。
  康平6年(1063)に国司庁宣により清原頼行が久利郷司に補任されているが、これを2氏とも中世的所領の成立として重視している。当時の国司は同姓の清原定隆で、その父は「頼隆」であった。清原頼行は石見守の一族である可能性が強い。
 次いで応徳元年(1084)には入道学源が一族の2名(清原近俊・正宗)と連署で先祖相伝の私領である久利郷を清原則房に譲り、それを国司から認められている。さらに大治元年(1126)には清原長房が石見守藤原資盛(主水正)から久利・仁満・雨河内3ヶ郷を安堵されている。そこに記された四至境を応徳元年の久利郷のものと比較すると、西側を除けば共通であり、そこでは他人の所領を交えずとされるが、本当の意味で一円的なものかは検討の余地がある。
 久安元年(1145)に藤原忠通が石見国知行国主となって以降は、同年の源清忠をはじめとして摂関家家司が国守となっている。清忠の前任の藤原宗長(鳥羽近臣、兄弟に池禅尼、父宗兼は白河近臣)までは院との関わりの強い人物が国司となっていた。
 清忠の後任の石見守である藤原国保のもとで久安3年(1147)には長房が久利別符司に補任されている。郷が時に別符と呼ばれることはあるが、石見国内における別符の多さに鑑み、ここで一つの画期=本当の意味での領域的所領の成立があったのではないか。
 石見国内には、この外に①来原別符、②末元別符、③永安別符、④阿刀別符(以上那賀郡)、⑤乙吉別符、⑥安富別符、⑦津毛別符、⑧丸毛別符(同美濃郡)、⑨宅野別符(邇摩郡)、⑩長田別符⑪市木別符(邑智郡)、⑫鳥居別符(安濃郡)などの別符が確認できるが、その成立もこの時期であろう。このうち、①以外はいずれも益田(御神本)氏との関係が確認できる。
 国保が8年間(重任)、その後任の季兼が4年間石見守を務め、摂関家庄園の成立に寄与したと思われる。それは応保元年(1161)に石見守を退任した藤原永範まで続いた。その後は院とかかわりの深い人物に交替している。嘉応元年(1169)10月には清原長房の訴えが認められ、河合友弘の押狩が停止されているが、当時の国司は後白河の近臣藤原為行であった。

斐伊川の東流について

 本ブログでは、標題のテーマを検討するため、斐伊川と宍道湖に挟まれた地域の中世について検証してみた。斐伊川の東流の時期も大切だが、それを考えるためにも周辺地域について整理する必要性を感じたのである。具体的には漆冶郷(直江)、福頼庄(庄原)、志々塚保、福富郷、多久郷などについて述べてみた。直江、庄原の地名については、斐伊川支流と宍道湖との関係抜きには考えることができない。福頼庄についてはながらく所在不明となっていたが、島根県内でもっとも早く成立した庄園(摂関家領)であり、宍道湖西南部に隣接するこの地が平安末期には重要な土地であったことがわかる。
 出雲国内で摂関家領と言えるのは、能義郡富田庄、宇賀庄、吉田庄に、松江市北部の末次庄・法喜庄、出東郡の志々塚保、林木庄、美談庄があり、これに福頼庄を加えると平野部の要地にあることがわかる。また中海の南側と宍道湖の東西の要地を抑えていることも分かる。楯縫郡多久郷の領域が福頼庄と漆冶郷と境を接しているが、それにはいかなる背景があったのだろうか。
 これに松江側の情報も整理したいところだが、戦国期に満願寺城を拠点とした湯原氏関係史料を除けば、ほとんど史料が残っていない。これについては今後の課題であるが、塩冶興久がなぜ、佐陀城を拠点としようとしたかも重要であろう。

2009年4月 5日 (日)

鎌倉幕府と出雲国(2)

 島根郡には今でも「本庄」の地名が残り、弁慶伝説も知られているが、皇室領長海本庄と徳大寺家領長海新庄があった。本庄の地頭は将軍宗尊親王の側近であった持明院少将基盛で、出雲佐々木氏の基礎を築いた佐々木泰清もこの地で死亡したと系図は記す。新庄の地頭は記載されていない。本所一円地であったためであるが、出雲大社の頭役は負担していた。同じように地頭未記載の大原郡加茂(福田)庄は、結番注文には載せられたが、頭役を勤めなかった。
 秋鹿郡伊野郷と出雲郡志々塚保の地頭は「持明院殿」とあり、持明院統の皇位継承者であろう。伊野郷は承久の乱以前は、出雲大社神主の地位を争った在庁官人中原氏の所領で、志々塚保は鎌倉末には出雲国守護の所領となっている。出雲郡氷室庄の地頭は幕府に仕える信濃僧正道禅の子孫(跡)であった。仁多郡阿井郷地頭は右大将家法華堂別当僧都尊範であった。これらは、幕府が所領を管理し、関係者を地頭に補任していたものであろう。比知新宮の地頭として阿井郷をそれまで支配していた「阿井兵衛尉子」がみえる。

鎌倉幕府と出雲国(1)

 文永8年の出雲大社三月会頭役負担により当時の出雲国内の地頭名を知ることができる。地頭と言えば「泣く子と地頭には勝てぬ」というように在地領主の代表としてのイメージがあるが、実は一つの職にすぎず、漆冶郷や以前に述べた横田庄のように、実質的には鎌倉幕府が管理し、その関係者が地頭となっていたケースも多いと思われる。得宗領や関東御領の研究があるが、それとも関わってくる。
 能義郡では赤江郷地頭として「大弐僧都」とあるが、14世紀初めには赤江郷は六波羅探題南方料所となっている。出雲国府が所在した意宇郡大草郷地頭は「雅楽頭子」とあるのみであるが、史料編纂所の史料データベースで検索をすると、当時の雅楽頭は賀茂氏、安倍氏といった陰陽家と医家丹波氏が務めている。そして文永3年には「雅楽頭丹波季康朝臣」がみえる。丹波氏は季康の祖父頼基以降幕府に仕え、将軍や北条氏の子の誕生に立ち会っていたことが確認できる。文永8年の大草郷地頭は季康の子で、実質的には幕府が大草郷を支配していた。
 意宇郡では守護領平濱八幡宮に隣接する竹矢郷地頭が「相模殿」で北条時宗であった。時宗は神門郡須佐郷と出雲郡神立社の地頭としてもみえる。現在、国道9号線の斐伊川にかかる橋が「神立橋」であるが、本来の神立は斐伊川東岸の地であった。須佐郷は出雲大社国造家と関わりの深い所領で、承久の乱以前は出雲氏が支配していた(続く)。

2009年4月 4日 (土)

中世の直江(3)

 この漆冶郷については、紀氏系図(尊卑分脈)に、美濃国池田庄を苗字の地とする池田長氏が出雲国漆冶郷地頭であったことが記されている。長氏は北条氏との関係を強めていた人物であったことが注目される。そして系図では長氏の子となっている池田孝長が、建武元年には出雲国内でその存在が確認できる。すなわち、佐草孝信が大原郡猪尾谷村一分地頭職を亡母源氏女から譲られて当知行していることの安堵を出雲国司塩冶高貞に求め、それを高貞が安堵しているが、その際に孝信の当知行の証人として、「池田弥九郎孝長」が登場するのである。
 佐草氏は国造家との関係を強め、中世後期には大社上官となっているが、その一方で東国御家人飯沼氏とも婚姻関係を結び、飯沼氏領であった猪尾谷村の所領を得ている。注目されるのは、「佐草孝信」・「池田孝長」と、ともに「孝」をその名に付けているのである。「孝」といえば平安末期以降国造家の人物が付けていた字であり、佐草氏のみならず、東国御家人で北条氏との関係の深い池田氏も国造家との間に婚姻関係を持ったのではないか。
 漆冶郷地頭については、新修島根県史で、延慶3年12月に八幡宮に土地を寄進した平朝臣が北条氏であるとの誤った記述がされ、それに基づき奥富敬之氏が漆冶郷を得宗領一覧に掲載したが、けがの功名というべきか、久明親王の側近である平顕棟や、北条氏との関わりが深い池田長氏が地頭となっていることが確認できた。文永8年の小山氏領が、その後、鎌倉幕府が管理する所領となっていたのではないか。

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