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2009年3月20日 (金)

出雲国西部の市町の人口から

  『出雲塩冶誌』の近世史では、当該地域の人口の問題についてほとんど言及がないので、町の問題とからめて補足する。
 「寛永十暦 出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳」よると、西部の主な町は、以下のとおり。
 杵築200、今市150、平田86、古志60、田儀60、宍道50、直江46、山口(現大田市)46、大津20
塩冶がみえず、今市の中に含まれている可能性が高いが合計718間となる。これによると、杵築(どの範囲かは不明)の規模が圧倒的に大きいとはいえない。

寛政4年の平田町は1743人で文久2年には2540人
直江町は文政7年に639人で文久2年に629人
宝暦4年の今市は1492人で、文政12年の1775をピークに幕末にかけては減少している。
下塩冶町は宝暦4年の379人をピークとし、以後幕末までは300人前後で推移
古志町は宝暦4年に234人。文久2年には374人
杵築6か村の中で最大の市場村は、寛政3年に1200人  天保4年に1461人でピーク。
大津町は、宝暦4年の534人が文久2年に721 
宍道村(町はなし)正徳3年775人、寛延2年1068、明和4年に1153、文化10年1137、文久2年に1423

 神門郡は出雲国10郡の中で最大規模の郡であるが、近世後期の人口の推移を伺うことができる。宝暦4年が50,242人であったのに対し、40年後の寛政6年は52,842人と、この間は飢饉を挟みながら微増傾向にあった。25年後の文政12年には63580人と、寛政末から文政末年にかけての人口増加率は高かった。次いで天保の飢饉までは停滞し、天保9年に飢饉で大幅に減少した(63,972→60,782)後は、減少傾向が続き、文久2年には56,388人である。
  神門郡内の町である、杵築、今市、塩冶、古志についても同様の傾向が伺われる。松江藩全体となると、天保の飢饉までは神門郡と同傾向であるが、飢饉以降幕末にいたるまで人口は微増しており、神門郡とは異なっている。ということは、天保飢饉以降も人口が増加した郡があったということである。平田町と楯縫郡は天保の飢饉以後も微増している。山間部の郡は、天保の飢饉では大きな打撃を受けたが、以後幕末にかけては増加傾向にあった。おおむね平野部では人口が停滞し、山間部で増加しており、その背景としては、山間部でのたたら製鉄の活況化もあろうが、それ以上に気温が上昇し、平野部はやや高く、山間部はちょうど良いという状況があったのではないか。

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