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2009年3月

2009年3月26日 (木)

中世の直江(2)

 開発の進む漆冶郷は鎌倉中期には比叡山延暦寺と関係の深い近江国日吉社領となっていたが、文永年間には実検に対する国衙側の乱妨が院宣により停止されている。そして正安3年には文永院宣と関東下知に基づき、山門(比叡山)に返付されている。一方、弘安年間には地頭の非法の訴えを受け、北条時宗が雑掌に従うことを述べている。地頭は文永8年には有力御家人小山氏であったが、永仁4年には一分地頭平顕棟との間に和与が成立し、これが永仁5年正月にはもう一方の地頭平女子との間にも適用されている。ところが、同年9月には平女子が国衙使を語らい狼藉をするとの雑掌の訴えを受けて、幕府が六波羅探題に調査を命じている。
 さらに正安年間には、島根郡長田西郷地頭長田昌遍が漆冶郷への狼藉に伴う召文違背により、嘉元元年11月に所領を没収されている。ところが、昌遍は出雲大社頭役負担のため、出雲国に下国して死亡しており、召文違背ではないことと、昌遍が狼藉は事実ではないことを述べていたことがわかった。この史料から以前は長田西郷も漆冶郷付近の所領と考えられたことがあったが、現在では長田郷は島根郡内であることが明らかになった。
  長田西郷と出東郡漆冶郷をつなぐのは、漆冶郷に南側にある建部郷を支配していた(承久の乱後は東国御家人領)建部氏の存在であろうか。国衙側が漆冶郷への干渉を強めていたのは事実であった。

中世の直江(1)

 直江と聞けば、新潟県直江津を連想する人もあろう。「江」とは湖沼などが入り込んでいたり川が流れていたことを意味する。斐伊川の支流が直江を経由して宍道湖に流れ込んでいた。文永8年の関東下知状では、漆冶(しっぢ)郷80町余とともに、地頭が同じ津々志村16町がみえる。鎌倉時代の村は新たな開発地を意味するため、漆冶郷内北部の開発地が津々志(つつぢ)村として独立したのだろう。現在は北部に「漆冶」(つつぢ)の地名と漆冶神社がある。
 延慶3年12月に平朝臣が八幡宮に大般若供料田6反を寄進している。寄進者平朝臣は将軍久明親王令旨の署判者としてみえる平顕棟(宗尊親王の母の一族)であろう。この田については、永享5年の鰐淵寺三長老連署申状で、郷内の荒野を開発して寄進したものであることと、守護泰清・頼泰・貞清が荒野開発であるため万雑公事を停止したことが述べられている。この八幡宮が文安2年には直江村八幡宮と呼ばれており(稲田家文書)、八幡宮周辺が直江村(現在の上直江付近)と呼ばれていたことがわかる。そして荒野であったこの地が戦国期期は郷内の中心となり、郷全体も直江郷と呼ばれるようになったのだろう。斐伊川支流周辺の開発状況を知ることができる。

2009年3月25日 (水)

中世の多久郷

 近世の楯縫郡を代表するのが平田であるのに対し、中世はその東部の多久郷が重要な意味を持った。一ノ谷合戦に参加した「多久七郎」の存在はよく知られている。文永8年の関東下知状でも平田保が13町余であるのに対して多久郷は36町余と3倍近くの規模である。
 平家方であった多久七郎本人は没落したであろうが、その跡は一族が継承した。それが勝部宿禰一族について記した大伴氏系図では、万田庁事明元の子明政(多久太郎)が承久の乱で討死したことが記されている。おそらくその所領は京方として没収され、東国御家人(文永8年の中二郎入道)が新地頭となった。これに対して万田庄の東側にあった玖潭社15町の地頭(玖潭四郎)は朝山昌綱の従兄弟にあたる宗綱に比定できる。平田保も文永8年の地頭は東国御家人多胡氏であるが、その一方で勝部廣政は地頭の地位は失ったが、国衙の有力在庁官人の地位は維持している。すなわち、平田保と多久郷は東国御家人領となり、玖潭社は同族の朝山氏が継承している。多久郷の東側にあった小境保は、在庁官人藤原氏の一族が地頭としてみえる(小境二郎)。
 そして多久郷で注目されるのは、その範囲が現在の斐川町内の久木(近世の沖洲、中州、黒目、三分市、坂田に西部の中原、福富、南を含む)に深く入り込んでいたことである。つまり、宍道湖に面していたのは平田保ではなく、多久郷であった。そして戦国期には沖洲は宍道氏が、中州は尼子氏が支配していた。そして久木地域の信仰を集めた久木八幡宮(福富に所在)は尼子氏が富田八幡宮を勧請したもので、その例祭には尼子氏家臣が代参したことが近世後期の記録に記されている。
 これに対し、近世には平田が中心となったのは、斐伊川とその支流の流路の変更が大きかったであろう。

2009年3月22日 (日)

戦国期の出雲・吉田氏について(3)

 戦国期の出雲・吉田氏としては、永禄12年に尼子勝久から杵築における室の安堵を受けている「吉田次郎兵衛」と「吉田彦四郎」がいる。これも能義郡吉田氏の一族の可能性が高いが、その意味で注目されるのが、応安4年に母里庄東方内の田地1町を出雲大社に寄進している「沙弥道用」と応永3年にその寄進を再確認したその子「沙弥道初」であろうか。すでに述べたように、戦国期に母里庄東方を支配していた母里氏と母里庄西方を支配していた吉田氏は同族であった。寄進状そのものは、出雲大社への寄進状であるから千家文書として残っただけであるが、寄進をした道用・道初父子が吉田氏と関係があるとすると、出雲大社の室を支配した吉田氏と能義郡の尼子氏家臣吉田氏が同族である可能性が高くなるのである。
 出雲国内ではほかに飯石郡吉田があり、ここに戦国期に備後国山内氏の家臣田部氏は入ってくるが、吉田氏を名乗ってはいない。断定まではできないが有力とはいえよう。
 話は変わるが、降水確率という微妙な意味の言葉があるが、これと同じように、考古学における説についても何らかのわかりやすい指標があると不必要な誤解を生まなくなるのではないか。考古学の通説とはあくまでも可能性の最も高い説であるが、その中には3割程度のものもあれば、9割近いものもあろう。それがマスコミや歴史愛好家に提示されれば、無用の誤解をさけることができる。
 出雲大社の巨大柱と本殿の高さについて、考古学関係者と話したら、「なぜ柱が宝治2年のものと断定できるか」と言われたが、それこそ考古学者がその確率を示すべきものである。文献により、中世における本殿の造営は建久元年と宝治2年のみであることが確認できるがゆえに、文献と出土遺物との関係から断定できるのである。邪馬台国は現在は畿内説が最も有力とされるが、その割合は何%であろうか。ただ、日本では文系と理系を分ける傾向が強く、考古学関係者を含め歴史関係者は理系的な数学的処理の苦手な人が多いのが問題である。

戦国期の出雲・吉田氏について(2)

 永禄12年に尼子勝久は出雲国内に入り、毛利氏が九州に主力を派遣しているスキをついて勢力の再構築を図った。旧家臣に対して旧領安堵の文書を与えているが、その中に「吉田四郎三郎秀辰」がいる。秀辰には、祖父宮内大輔の旧領5000貫の安堵を行っているが、その範囲は能義郡全体に及んでいる。苗字の地吉田庄1000貫だけでなく、宇賀庄1000貫、安田南北700貫、比田東西1000貫、布部300貫、田原300貫、利松(弘)保300貫、飯生庄300貫、実松保100貫である。ここには母里庄はみえない。
 東母里村八幡宮の棟札には以下の人物がみえる。
①文明15年「母里土佐守藤重房」、②文亀2年に「母里刑部左衛門尉経房」、③天正18年「吉田肥前守藤原光勝」。天文9年の竹生島奉加帳には「母里土佐守」がみえ、吉田氏と母里氏が同族である可能性は高い。
 宇賀庄は出雲国内最大規模の摂関家領庄園であったが、永禄年間に吉田八郎左衛門尉久隆が庄内の雲樹寺に所領を寄進している。そして、吉田氏と宇賀庄の関係は、同庄内の清水寺の史料にも記されている。その覚書には、天文11年~12年の大内氏による富田城攻めの際に、吉田筑後守が尼子氏への忠節により宇賀庄一円を恩賞として与えられたことが記されている。そして筑後守の後継者として「吉田源四郎」が記されていることから、この吉田氏も藤原姓吉田氏であることがわかる。
 宇賀庄は比田・布部とともに尼子氏領と富田衆領であった可能性が高く、尼子氏一族で大内氏方となったものがあったこととなる。実際に、出雲国攻めに先立つ天文11年7月の大内氏重臣相良武任書状には、「神西御扶持」と「宍道・尼子両人給」とみえ、尼子氏某の処遇が問題となっている。

戦国期の出雲・吉田氏について(1)

 出雲国で吉田氏と云えば、鎌倉時代の守護佐々木氏の一族で能義郡吉田庄を支配した吉田氏(厳秀流)を連想する。尼子経久は次男国久を吉田氏に養子に入れ、「吉田の孫四郎」と史料にもみえている。三男興久が塩冶氏(義清流)に養子に入っており、なおさら吉田氏も佐々木氏となる。 ところが、文明年間の『親元日記別録』にみえる吉田庄を支配する佐々木清秀・貞秀父子は、義清流の富田氏から分かれた羽田井氏から出ている。あるいは、厳秀流の出雲・吉田氏に養子に入った可能性があるが、尼子氏の家臣としてみえる吉田氏はまた別なのである。
 旧島根県史編纂時に作成された「島根県史神社資料」には出雲国の神社の棟札が収録されているが、天文9年の竹生島奉加帳にみえる「吉田兵庫助」は、能義郡内母里庄を支配した藤原姓の一族であることが分かる。西母里八幡宮の棟札には以下の人物がみえる。
  ①嘉吉3年「左近将監藤原朝臣俊永」、②永正15年「吉田藤原兵庫助」「虎千代丸」
 ③天文6年「願主大旦那正永」、④天文21年「願主吉田兵庫助経永」「福山三郎兵衛尉藤原綱信」、⑤天正16年「大旦那吉田源四郎藤原朝臣元永」
名前から見てこの人々が同族であることは間違いなく、吉田氏とその重臣福山氏が一緒に記されていることからも、この人々が軍記物に登場する吉田氏と一致することが確認できる。

2009年3月20日 (金)

出雲国西部の市町の人口から

  『出雲塩冶誌』の近世史では、当該地域の人口の問題についてほとんど言及がないので、町の問題とからめて補足する。
 「寛永十暦 出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳」よると、西部の主な町は、以下のとおり。
 杵築200、今市150、平田86、古志60、田儀60、宍道50、直江46、山口(現大田市)46、大津20
塩冶がみえず、今市の中に含まれている可能性が高いが合計718間となる。これによると、杵築(どの範囲かは不明)の規模が圧倒的に大きいとはいえない。

寛政4年の平田町は1743人で文久2年には2540人
直江町は文政7年に639人で文久2年に629人
宝暦4年の今市は1492人で、文政12年の1775をピークに幕末にかけては減少している。
下塩冶町は宝暦4年の379人をピークとし、以後幕末までは300人前後で推移
古志町は宝暦4年に234人。文久2年には374人
杵築6か村の中で最大の市場村は、寛政3年に1200人  天保4年に1461人でピーク。
大津町は、宝暦4年の534人が文久2年に721 
宍道村(町はなし)正徳3年775人、寛延2年1068、明和4年に1153、文化10年1137、文久2年に1423

 神門郡は出雲国10郡の中で最大規模の郡であるが、近世後期の人口の推移を伺うことができる。宝暦4年が50,242人であったのに対し、40年後の寛政6年は52,842人と、この間は飢饉を挟みながら微増傾向にあった。25年後の文政12年には63580人と、寛政末から文政末年にかけての人口増加率は高かった。次いで天保の飢饉までは停滞し、天保9年に飢饉で大幅に減少した(63,972→60,782)後は、減少傾向が続き、文久2年には56,388人である。
  神門郡内の町である、杵築、今市、塩冶、古志についても同様の傾向が伺われる。松江藩全体となると、天保の飢饉までは神門郡と同傾向であるが、飢饉以降幕末にいたるまで人口は微増しており、神門郡とは異なっている。ということは、天保飢饉以降も人口が増加した郡があったということである。平田町と楯縫郡は天保の飢饉以後も微増している。山間部の郡は、天保の飢饉では大きな打撃を受けたが、以後幕末にかけては増加傾向にあった。おおむね平野部では人口が停滞し、山間部で増加しており、その背景としては、山間部でのたたら製鉄の活況化もあろうが、それ以上に気温が上昇し、平野部はやや高く、山間部はちょうど良いという状況があったのではないか。

2009年3月16日 (月)

朝山郷と塩冶郷

 塩冶氏と朝山氏、塩冶郷と朝山郷はどのような関係にあったのだろうか。塩冶氏と朝山氏が同族=勝部宿禰であったことは確かである。ただ、稲田家蔵の大伴氏系図には塩冶氏は登場しない。京都大学蔵の朝山氏系図には朝山氏から塩冶氏が分かれたように記されているが、もとより全体的に信頼性が乏しい上に、石井進著作集をみていたら、塩冶氏に関する記述は、児玉党の塩谷氏系図の一部に基づき作成されたことがわかった。
 ここでは、朝山郷の内下朝山と呼ばれる部分と塩冶郷の境が問題となる。近世の今市村は塩冶郷に含まれるとされるが、「朝山郷東分今市掟書写」を見る限りは、今市は朝山郷に属したとすべきであろう。もうひとつは、近年発見され、大規模な武家の館跡であるとされる蔵小路西遺跡についてである。井上氏により朝山惣領家の館ではないかとされているようだが、この館がある近世の渡橋村は塩冶郷に属したのではないか。それは、同地にある観音寺が塩冶高貞の開基であるとの伝承を持つことが気になるのである。高貞の時代は朝山氏は健在であり、ここが塩冶郷内であればこそ、高貞は寺院を開基できたのではないか。
 朝山氏、塩冶氏の館とも郷内に複数存在し、時代により場所が移動している。また、武家館以外の荘園制支配に関する施設が何カ所かはあったと思われ、すぐに武家館と考えるもの早計ではないか。
 今市が朝山郷内であり、渡橋が塩冶郷内であるとすると両者の境界は大変入り組んでいたことになる。本来は一つの所領であったものが、塩冶郷と朝山郷に分かれたのであろう。蔵小路西遺跡は15世紀中頃まで続いたとされるが、それと今市が開設された宝徳3年(1451)が符合するのは無関係であろうか。

2009年3月15日 (日)

出雲大社領の成立と国造家(2)

 話が横道にそれたが、①については以下の通りであった(斐伊川の東流について述べた際の地図参照のこと)。治暦3年(1067):内遙堪、天永3年(1112):外遙堪・河午(手)、久安元年(1145):鳥屋・武志と、出雲大社に隣接する遙堪から上流の鳥屋まで順番に寄進されている(河午=阿吾との理解は採らない)。次いで、建久2年(1190):大田郷(これも阿吾付近との理解は採らず、これが後の千家・北島に相当すると考える)とあり、別に出西郷は先祖開発の私領であるとする。遙堪から鳥屋までは斐伊川東流部分の西北にあったが、大田と出西は東流部分を挟んで南東側にある。文永8年の杵築大社結番帳の20番も「遙堪郷 武志郷 鳥屋郷 大田郷 出西郷 伊志見郷」の順に記されている。
 そして久安元年と建久元年の間に、国造家内部で勢力の交替がみられた。すなわち、それまでの「兼」を名乗る人々から、「孝」をその名に付ける人々に交替している。その初代が、宗孝であった。宗孝は出雲氏の一族であろうが、「兼」を名乗る人々との間に外戚関係を結び、そして何らかの理由(この間に出雲大社領の成立をめぐる内蔵氏との対立と平氏の台頭があった)で、これに替わったのであろう。出西郷を開発した先祖とは宗孝系の人々であろう。出西郷以外にも別納の地はあり、これらは「兼」系など別の出雲氏が開発したものであろう。
 国造家が「孝」を付けるのは、千家・北島家の分立までである。北島側は今に至るまで「孝」を付けるが、千家側では孝宗を最後とし、それ以降は付けない。それは、兄清孝と弟貞孝が「孝」を名前の下の字に付けていたのに対し、自らは「孝」を上に付けていたことによる。また、分立の直後からそれぞれが千家、北島を名乗っており、それは何故かというと、古代の神戸の流れを引く大田郷が後の千家・北島村に相当するからにほかならない。

出雲大社領の成立と国造家(1)

 「万世一系」との表現があるが、どのような意味を持つのだろうか。現在の私達も親がなければいないわけで、それを繰り返せば、誰だって古い時代にさかのぼることができる。別に天皇家の人が特別なわけではない。違いがあるとすれば、歴史をたどる記録が残っていることぐらいか。それとて、本ブロクでの主題となる「虚像」が多く、実像とは異なる。近年、百姓レベルの家が継続していくのが17世紀後半以降であるとされるが、それも、移動が少なくなり、記録・記憶が安定して残るようになったというもので、「~家」とて虚像でしかない。
 中世の出雲大社領は、遷宮を期に①国司が寄進した所領と、②国造家など出雲大社に関わった人々の開発地からなり、後者は「別納の地」とされた。どちらが古いかといえば、史料の上では①が先行している。当然②ではないかとの疑問があろうが、関わった人々は勢力の消長により変化しているのである。「国造家」にしてもとても「万世一系」ではなく、出雲氏内部での勢力の交替の中で、今のところ最後に勝ち残った家でしかない。
 何を言いたいかといえば、出雲大社はあくまでも宗教施設であり、現在において人々の精神的救済にいかなる役割を果たしているかが肝心であり、過去が問われるべきではない(過去のその時々に果たした役割によりその時点の評価が定まる)。以前にも述べたが、「歴史を発見すること」と「歴史をつくること」は似て非なるものである。

尼子氏の評価

 尼子氏について、その新しさを評価すべきとの意見はもっともである。ただ、史料の制約があるので、今のところ松浦氏の論文以上に進めるのは難しい。毛利氏が吉川氏と小早川氏に次男元春と三男隆景を養子に入れたのは、尼子氏が次男国久と三男興久を西部の吉田氏と東部の塩冶氏に養子に入れたのを参考としたとも言われるが、うまく機能したとは言えない。
 尼子氏にとって掌握すべき重要な国人は南部の三沢氏と石見国東部の佐波氏であった。両者とも大内氏の出雲攻めに際して大内方となった。前者については惣領を交替させ横田庄を直轄化し、後者については一族の赤穴氏を惣領にしようとしたが、いずれもうまくいっていない。佐波氏については、山口に逃れていた興連(惣領隆連の叔父)が佐波郷に復帰することを阻止できず、新たな三沢氏惣領に対する婚姻関係による懐柔も機能しなかった。
 尼子氏の発給文書をみても、6割は寺社宛で、国人宛は3分の1にとどまる。国人宛のものは所領の安堵が中心で、国人間の利害を調整するものはない(この点については『出雲塩冶誌』の中でその概要を述べた)。寺社宛の文書の中で名主が地頭に無断で土地を売却したら没収するとの政策が打ち出されているが、その対象は直轄領、富田衆領、寺社領に限定され、国人領には及んでいないのではないか。尼子氏発給文書に連署する富田衆についても、すでに述べたように、当初は亀井・立原・多胡氏といった譜代の重臣が主であったが、しだいに晴久お気に入りの人々が署判者となっていく。「公」のものになしえたであろうか。一貫して署判者としてみえるのは立原幸隆ぐらいである。
 『歴史読本』の中で尼子氏の婚姻関係について述べたが、スペースの関係で不十分なものとなった。、本ブログの「尼子晴久」の項を参照いただきたい。

2009年3月12日 (木)

中世の多禰郷について

 前にも書いたように、出雲国内の公領で最大面積なのは、約100町出雲郷(現在の東出雲町)であった。出雲国衙の最有力者朝山氏が支配した朝山郷も80数町と大きい。これに対して多禰郷(現在の雲南市)は25町余しかない。ところが、朝山氏一族のNo2は多禰氏であった。出雲大社三月会の執行や造営には朝山氏とともに多禰氏が関わっている。
 中世の多禰郷は戦国期以降は掛合郷と呼ばれるようになる。郷内の中心が現在の多禰(多根)から掛合に移ったことによるのであろう。多禰から南へ、掛合に入ったところには「十日市」の地名が、本来の多禰郷の中心には「舟津」の地名が残っている。この中世の多禰郷は山間部であるため田数は少ないが、その範囲は広大である。合併前の掛合町全体だけでなく、三刀屋町の殿河内、坂本、須所なども多禰郷内であった。地図でみると、雲南地域の政治・経済の要の位置にあり、備後との関係でも重要であることがわかる。
 南北朝期に朝山氏一族多禰氏が没落すると、周辺の来島郷、由木郷(以上現在の飯南町)、多久和郷などとともに、守護京極氏の支配に入る。来島・由木郷は以後、佐波氏の支配するところとなるが、多禰郷の大半と多久和郷は守護京極氏とその家臣が支配していた。
  戦国期には、京極氏から支配を認められた多賀氏(尼子氏と婚姻関係を結ぶ)や多賀山氏(備後国山内氏の一族)などがこの地を拠点として活動した。多賀氏が塩冶興久の乱に与同して没落すると、その跡は新宮党と尼子氏の直臣富田衆が支配したが、尼子氏滅亡後は毛利氏のもとで多賀山氏の支配が確認できる。

2009年3月10日 (火)

戦国期出雲国内の経済力比較

 石見銀山の発見とともに、戦国期出雲国では杵築をはじめとする西部の経済力が上昇したというのが定説となっている。ところが、西部以外の資料はほとんど残っておらず、実際はどうであったろうか。『出雲塩冶誌』では、近世前半の国内の町の規模から推測したが、各町の記録も資料そのものの基準がまちまちであるとの問題があった。また、近世城下町松江の形成は、とりわけ近接する東部の町に大きな影響を与えたと思われる。実際に、松江城下へ移転した商工業者も多かっただろうし、戦国期には地域社会で認められていた市日(三斎市ないしは六斎市)が、近世権力に認められなかったものもあったであろう。
 松江市歴史叢書1(2007年12月刊)として「京都・妙心寺派春光院」の資料が紹介された。春光院は初代松江城主堀尾氏の菩提寺で、その資料の中に「寛永十暦 出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳」がある。これまで知られていなかったもので、同種の資料は他に3点確認されているが、最も詳細で、寛永中期に成立した原本ないしはその写しであろうと評価されている。
 そこには4点の中で唯一各郡の石高と在郷町の家数が記されている。それによると、西部の主な町は、以下のとおり。
杵築200、今市150、平田86、古志60、田儀60、宍道50、直江46、山口(現大田市)46、大津20
塩冶がみえず、今市の中に含まれている可能性が高いが合計718間となる。これに対し、東部は以下のとおり(いずれも南部は除く)。
富田210、安来86、美保関80、母里45、井尻30、揖屋26、出雲郷20、湯ノ町18(合計515間)
西部が約200間ほど多いようにみえが、東部に松江を加えると西部を上回る可能性が高い。旧城下町であった富田にみられるように、松江城下へ移転したものは東部中心であった。とすると、戦国期の東部と西部の経済的比重は西部が高かったとは言えないのではないか。あとは、南部をどう評価するかが課題である。斐伊川をつうじて西部との結び付きが想定されるが、陸路も考えなければならない。

2009年3月 3日 (火)

中世・近世の人口増加(再3)

   近世以前は春から初夏にかけてに死亡率のピークがみられた。米の端境期の食糧不足が原因であったとされる。それが近世になると夏麦栽培により克服された。近世は初夏までは低いが8月が死亡のピークとなり、冬にもう一つの山がある。冬の寒さよりも夏から初秋にかけての中毒や伝染病の蔓延が脅威となった。
 以上のような歴史人口学の研究成果(主に山形県の山村が分析対象)に対し、県内(斐川郡)で宗門改め帳を分析した成果によれば、大飢饉や伝染病流行など一時期を除けば、夏(4~6月)よりも秋から冬へかけて(7~10月)の死亡者が多いという結果が報告されている。その地域の夏・冬の平均気温の高い低いにより、その多さは異なっていた。
 近世について、気温が低いと東北日本で収穫が打撃を受け、人口が減少した。一方、西日本では人口が増加している。それが気温が高すぎると西日本では水の不足などで飢饉が発生するが、西日本の山間部や東北日本では人口が増加した。中世では西日本で一早く二毛作も普及している。人口のデータは東国中心に知られているが、西日本ではやや異なる点もみられた。このことは中世ではどのような違いがあったのだろうか。

中・近世の人口増加(再2)

 黒田氏と藤木氏の本でも、有名な一揆や紛争の陰には飢饉が存在したことが述べられている。山本武夫氏「気候の語る日本の歴史」で、近世の飢饉と一揆には大変深い関係があることが述べられていたが、同様のことであろう。
 出雲国の中世史にあてはめてみると、出雲大社領の民が何度か境を越えて日御崎社領へ入り、日御崎社が幕府に訴えているが、正長元年(1428)・永享11年(1439)ともに、飢饉のあった年である。文明3年から4年にかけても大社による押領を日御崎社が訴えている。明応4年には、幕府御料所朝山郷と出雲大社・塩冶氏などの対立が起きているが、これも飢饉の時期である。永正2年には、逆に塩冶氏側(おそらくは大社も)が守護京極氏が動員した国人の攻撃を受けているが、この時期も飢饉であった。この他にも飢饉と紛争の発生が一致しているのは確かである。紛争時には、武士や神社だけでなく、住民の対立も発生していた。
 鰐淵寺は何度か、幕府から守護使不入や税を免除する文書が出されているが、それも飢饉の年であることが多い。という具合で、当時の天候状況と紛争の発生には深い関係がみられるのである。言われてみれば当たり前なのだが、このような観点が中世史に導入されるようになったのは10年ほど前であろうか。

中・近世の人口増加(再1)

 以前「中世の人口増加」について述べたが、中世の人口に関する論文を読んだ。歴史人口学で、近世と中世の比較で述べられていた田村氏の論文「死亡の季節性からみた中世社会」(同氏『日本中世村落形成史の研究』を実は持っていた)である。黒田基樹氏や藤木久志氏の著書もみた。
 田村氏の研究は千葉県松戸市の日蓮宗本土寺の過去帳(1394~1592)に基づく分析である。中世社会では年の前半までは死亡率が高く、後半には低いというもの。その原因を、秋の収穫が十分ではなく、春にはいると食糧不足が表面化して死亡者が増えるというもの。ただ、15世紀後半になると、5月には一時死亡率が低下し、それは二毛作の麦の収穫によるもので、畠作中心の関東にも15世紀後半には二毛作が普及したことが論じられている。
 それが近世社会はいると17世紀後半には春の食糧不足は克服され、かえって夏に疫病の流行で死亡率が高くなっている。ところが天保の飢饉の時期をみると、中世との共通性が多く、そこから、中世社会は常に飢饉状態にあったと結論づけている。データに基づくもので説得力はあるが、一方で、それにもかかわらず、約200年の間で、70人近くが死亡した年(文明5年)から0人の年まであり、近世より飢饉状態に陥りやすかったぐらいが適切であろうか。田村氏は5年間の平均値の推移もグラフ化しているが、明確な差はみられるのである。

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