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2009年2月 8日 (日)

近世隠岐における人口と牛馬数の変動

 歴史人口学では、人口と並んで牛馬数も分析の対象となる。各地で作成される村明細帳には戸数・人口とともに牛馬数が記されているからである。
 近世を通じて人口は増加していくが、牛馬数の変動には地域差が大きい。歴史人口学のパイオニア速水氏の紹介した尾張国の例では牛馬数は減少し、その背景として従来の大家族・大経営から、核家族からなる小経営へと中心が移ったことが指摘されている。
 牛と馬の違いもある。出雲国では、牛は1軒あたりの保有数で比べると、平野部より山間部が多く、その差は幕末になるとさらに拡大する。馬は街道沿いで都市的な地域に多いが、後期以降東部で増加し、西部では減少している。江戸中期と幕末の牛馬数は、ともに後者が前者の倍程度、尾張国と違い増加している。
 隠岐国は、今年になって大相撲の十両力士が誕生し、その名も「隠岐の海」としたが、相撲とともにさかんなのが闘牛である。実際に訪れると島前には多くの牛をみることができる。近世にも博労の手により、隠岐から各地へ牛馬が送られていったが、17世紀末と明治初年を比較すると、牛は3割減(3,699→2,593)、馬に至っては半減(2,973→1,395)している。とりわけ島前での減少が目立つ。これに対して人口は17世紀半ば過ぎの15,911人が明治元年には29,731人と2倍近い数字に増えており、出雲・石見より増加率は高い。とりわけ島前の増加率が高い。
 この島前で顕著な人口の増加と牛馬の減少はどのような関係があるだろうか。当然、尾張国とは状況が違う。近世後期は山陰地方への北前船の来航が活発化したことが知られており、従来の牛馬の飼育と輸出に代わって、水運の拠点として商品流通に関わる人々が増えたことが原因だと思われる。

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