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2009年2月

2009年2月28日 (土)

出雲大社本殿の高さ(3)

 この問題については、宝治2年(1248)の造営について述べたところだが、井上寛司氏から著書『日本中世国家と諸国一宮制』を恵贈いただき、最近の研究について知った。そこでは、本殿の高さと結びつけて論じられてきた「顛倒」についての山岸常人氏の見解が紹介されている。基本的に「顛倒」とは造営・遷宮事業にともなうものであるというのである。この点について、十分検討してはいないが、宝治2年の本殿が24mであったことを本ブログでは述べた。井上氏は「顛倒」を仮殿造営が間に合わずに顛倒したものとされるが、いずれにせよ、これまでの「顛倒」から本殿の高さを推定する論の問題点が指摘されている。
 一方、井上氏の著書では、康治2年(1143)の官宣旨から、康平5年の造営を重視されるが、史料そのものをみると、国内の荘園が一同に出雲大社造営に協力するのは、数代の旧規であるとした上で、「近くは康平5年」と記しており、この史料から康平5年が画期であるとは言えない(少なくとも史料を作成した国司はそう思っていない)のではないか。他の史料と併せての井上氏の理解であるが、少し気になるところである。
 筆者は、近刊の『出雲塩冶誌』の中世編で述べたように、この史料は、康治2年前後から出雲国内での荘園が増加し、出雲大社造営に協力を得ることが困難となったことを述べたものであると理解している。
 蛇足であるが、井上氏の新著でも康治2年の官宣旨にみえる「帥中納言家」を「保」の字が欠落しているとして「藤原家保」とし、建久2年の在庁官人解状にみえる「民部卿」を「源俊明」に比定されている。ところが、この2つの史料が記しているのは院の近臣藤原顕隆の子顕頼の時の造営である。そこで、顕頼について調べてみると、権中納言と太宰権帥を兼任したことがあり、かつ、永治元年(1141)には民部卿に昇進しているのである。以前からの解釈であるが、きちんと確認してみていく必要がある。

2009年2月21日 (土)

守護代宇賀野氏について

 尼子氏の前任の守護代宇賀野氏については、福井大学の松浦義則氏の論文「戦国大名の領主層把握」ではじめてその存在が指摘された。そこでは①日御崎神社文書と②佐方文書の2点が根拠とされた。史料をみれば一目瞭然で、それ以前に尼子氏が明徳の乱後まもなく守護代となったとの説があったのが不思議なぐらいである。
 ①は以前からよく知られたもので、年未詳であるが宇賀野氏が大原郡大東庄を支配した佐々木氏一族の馬田(ばでん)氏を攻撃したことが述べられている。②は熊本県史編纂により知られるようになったが、正長元年(1429)に宇賀野氏が隠岐国村次郎左衛門尉と田儀次郎左衛門尉並びに石見勢を鎮圧するために、国人を率いて転戦していることがわかる。
 これ以外には、年未詳であるが、実質的に鰐淵寺領となっていた出東郡漆冶郷に対し近隣の遠藤氏が乱入したことに関する訴えを受け、宇賀野氏に遠藤氏の召還が命じられている(鰐淵寺文書)。前回に述べた応永32年の史料は、宇賀野氏に関する初見史料ということになる。
 京極氏の出雲国支配は守護代により行われた。山名氏に出雲国守護が後退する以前は、守護代吉田厳覚の活動が知られる。出雲国内の佐々木氏一族としては、能義郡吉田庄を支配した吉田氏がおり、厳覚はその一族であろうが、近江国内にも所領を支配していた。これに対して、明徳の乱後の守護代は出雲国内に拠点を持つ塩冶三河守であったが、まもなくその関係史料はみえなくなる。そうした中、京極氏の出雲国支配は後退し、その再建策として京極氏一族の宇賀野氏が派遣されたと思われる。その時期は、一旦叔父高数に守護の地位を譲っていた吉童子が成人して持光となって守護に復帰した応永31年であろう。この時点から2名連署であった守護奉行人奉書が4名連署に変化している。

2009年2月19日 (木)

京極氏と郡奉行

 出雲国守護京極氏の在地支配を担う存在として、井上氏により「社家奉行から郡奉行へ」という形で示されたものが郡奉行である。尼子清貞が応仁の乱で反守護方の松田氏を鎮圧し、能義郡奉行職に補任されたことはよく知られている。社家奉行が国衙機構を守護が吸収する中で成立し、神社間の調整などを担ったのに対して、郡奉行は郡を単位に守護権力の公使にあたっている。井上氏は社家奉行から郡奉行への移行を15世紀末から16世紀初頭の京極氏領国体制の転換の中でとらえられ、尼子氏の得た能義郡奉行職は特殊な性格を持つものとされた。
 ところが、新たに確認された佐草家文書中の応永32年(1425)3月28日守護奉行人奉書では、当時の守護代宇賀野氏に対し、郡奉行とともに大社領12郷を両国造代官に沙汰付けることを命じている。宇賀野氏は「御代官」との付記がなれれているように、尼子清貞の前任の守護代で、やはり京極氏一族であるが、この史料を踏まえると、井上氏の理解は修正される必要がある。すなわち郡奉行が15世紀前半から設置され、守護代とともに守護権限の行使にあたっていることがわかる。
  応永32年の文書を踏まえると、康正2年7月2日に京極氏奉行人が守護代尼子清貞と三沢対馬守に大社と日御崎社の境界をめぐる対立に関する日御崎側の訴えを受けて、両国造に代官を上洛させて説明することを求めている史料が注目される。井上氏は三沢氏を社家奉行であると評価されたが、守護代とともに守護権限の行使にあたる神門郡奉行であったとの解釈が可能となるのである。
  ちなみに康正2年の史料では尼子殿に対して「御代官」と付記し、それに続いて三沢対馬守を記している。これは、京極氏奉行人と守護代との関係を示すものだが、以前は「御代官」を三沢氏に関連させ、尼子氏の代官である三沢対馬守と解釈していた。ただ、佐々木寅介氏文書で守護奉行人から尼子氏宛の文書をよくみると、そのような解釈は成り立ちえないのである。

2009年2月16日 (月)

出雲国守護佐々木氏(3)

 承久の乱後、佐々木義清が出雲・隠岐国守護となった。前任の守護は不明だが、後鳥羽上皇方であったことは確実である。義清の跡は嫡子政義が継承し、その政義が三浦泰村との対立から出家するとその弟泰清が両国守護となったとの佐藤進一氏の説が通説であったが、史料をきちんと読むと、出雲国が政義に与えられたのに対して、隠岐国守護はその弟泰清に譲られ、政義の出家後、泰清が出雲国守護を兼ねたことがわかる。その時期も通説の延応元年よりやや遅い。
  そして泰清の跡は、小国の隠岐国が嫡子時清に譲られ、大国の出雲国がその弟頼泰に譲られたとの定説があるが、その一方でなぜ嫡子が小国なのかとの疑問も出されている。これも関係史料を精査・解釈すると、嫡子時清が一旦両国守護を譲られたが、彼が評定衆となって鎌倉で活躍するようになると、出雲国は弟頼泰に、隠岐国も弟で塩冶郷内高岡村を支配した弟宗泰に譲られたことがわかる。
 頼泰の嫡子が貞清であるが、彼は父三郎左衛門尉頼泰ではなく、祖父信濃守(次郎左衛門尉)泰清の後継者として、「信濃次郎左衛門尉」と名乗っている。その娘覚日は国造泰孝と結婚し、出雲大社と幕府の関係を強化した。そしてその兄弟が塩冶判官として有名な高貞である。貞清と高貞は近江佐々木氏の惣領の地位をイメージさせる「近江守」となっている。そして塩冶高貞が滅亡すると、親戚関係にあった国造家で孝時の後継者をめぐる対立が発生する。孝時の後継者は一旦、清孝となったが、病弱で問題もあって、弟貞孝に変更された。それに覚日が仲介し、清孝の相続を一期分とし、その後に貞孝が後継することとした。ところが、事態は複雑化し、清孝と貞孝の間にあった孝宗が清孝の地位を継承し、これに貞孝が親の譲りを楯に異論をとなえ、千家・北島家の分立が確定した。

2009年2月15日 (日)

出雲国守護佐々木氏(2)

  出雲国守護については、佐々木高綱や義清を初代とする説があったが、現在では佐藤進一氏の研究により、建久末年頃の安達親長を確認できる最初の守護とするのが通説である。義清については、承久の乱後に守護となったものであるが、高綱については、その子光綱流が文永8年段階で乃木氏を称していることや、伯耆国大山寺の高綱寄進の地蔵にちなみ、同じ佐々木氏出身の尼子晴久が戦国期に地蔵を造立していることからして、安達氏以前に短期間出雲国守護となった可能性は高い。ただ、初代かと言われれば、以下のように違う。
 文治5年、義経に与同したとして出雲国知行国主藤原朝方とその息子で出雲国司であった朝径父子、さらには出雲国目代兵衛尉政綱が頼朝の要請により解任されている。そして、朝方・朝径は出雲大社遷宮を控えての解任は気の毒であるとして、間もなく復帰が認められたが、政綱は頼朝の派遣した北条時定に引き渡された。頼朝の標的は政綱であったが、この政綱は、文治元年4月に頼朝から無断で任官したとして批難された東国御家人の一人としてみえる「右兵衛尉政綱」と同一人物であろう。なぜ、東国御家人が出雲国目代となったのだろうか。
 佐藤氏が明らかにしているように、頼朝の側近梶原景時は頼朝の推薦で美作国目代となっており、因幡国目代大井實春も同様であった。となると、政綱もまた、頼朝の推薦で出雲国目代となったのであろう。そして、景時は美作国守護でもあり、實春も因幡国守護であった可能性が高いとされる。これに、出雲国では頼朝が領家に推薦した内蔵資忠が国造孝房に代わって出雲大社惣検校となっていることを加えると、政綱もまた目代となる一方で、出雲国守護に補任された可能性が高い。
 すなわち、政綱こそ、初代出雲国守護であったろう。出雲国における幕府の支配は現実的な形で浸透していったが、義経と奥州藤原氏の問題がからんで、頼朝自らの手で政綱を討たなければならなかった。これは、出雲大社惣検校資忠が遷宮にからんで国造孝房に再度交替したこととともに、鎌倉幕府にとっては支配の後退であった。

出雲国守護佐々木氏(1)

 鎌倉時代の守護領については、石井先生の研究が長らく通説であったが、近年では、守護領といっても多様なあり方があったことが明らかにされた。石見国などは守護領と確認できる所領がほとんどなく、代わりに益田氏とその一族の所領が要地を占めている。ここから国衙の非主流であった勢力が平家方となって没落したのではないかとの仮説も提示されている。
 これに対して出雲国の佐々木氏は国内の要地の地頭職を確保している。文永8年段階では、守護佐々木泰清領が美保郷、富田庄、平浜八幡、塩冶郷、古志郷を占めている。またその長子義重が美談庄、そして泰清の父義清の養子となった佐々木高綱の子光綱の子たちが、乃木保、乃白郷、日吉末社(意宇郡)、木津御島(神門郡)の地頭となっている。
 文永8年段階では前に述べた様に朝山氏一族領であった湯、拝志、佐世郷もまもなく泰清の子頼清が養子に入って相続している。それ以外に、古曽志(秋鹿郡)、生馬(島根郡)、林木庄(楯縫郡?神門郡?)、志々墓保(出雲郡)も泰清の孫貞清の段階では守護領となっている。当初は、宍道湖と中海をつなぐ大橋川の南岸の両端に位置する八幡庄と乃木保を支配していたが、それに、南岸の湯・拝志郷、さらには宍道湖北岸の東部の古曽志と北岸西部の美談庄・林木庄、さらには西岸の志々墓保を支配しているのである。これに日本海の要港美保関と、斐伊川の東流により宍道湖とつながり、神門川により日本海とつながっている塩冶・古志郷を併せれば、出雲国の水運の要地を独占しているといっても過言ではなかろう。

2009年2月11日 (水)

大根島

 風土記時代の宍道湖の水位について述べたことがあった。斐伊川の東流との関係(流入する河川の水量)で述べたが、もう一つ考えなければならなかった。それは外海とつながっているので、当時の海面と同じ高さだということ。現在もそうなっている。
 風土記時代の大根島は蜛蝫(たこ、虫+居と虫+者)島と呼ばれ、周18里100歩とある。律令時代の里は5町~6町(5~600m)であるので、現在の距離に直すと周囲9~10kmであろうか。現在は周囲12km。蜈蚣(むかで)島とあるのが江島。風土記時代は5里130歩(約3km)。現在は周囲4km弱。
 いずれも、現在の方が風土記の記載よりやや長いので、風土記時代の方が水位が少し高かったということになるのだろうか。気温のデータをみると、微妙な時期になる。奈良時代初めまでは気温の低い時期が続き、後半から気温が上昇し始める。人口の記事でも、聖武天皇の頃から気温が上昇したことを述べた。ただ、気温のグラフをみると、明治以降気温上昇期に入っており、現在と比較すると同じかやや低かったと思われる。(現在の出雲国風土記の記載が、命令が出された8世紀前半の状況か、再編集後の8世紀後半の状況かでも変わってくる?)。
 近年の地球温暖化関係の資料によると、2100年には、平均気温が1.4~5.8℃上昇し、その結果、海面が18cm~59cm上昇するとあるので、1℃の上昇で10cm強上昇するのであろう。一方、干拓などの影響(面積が増えた)も考える必要があるのだろうか。干満による水面の高さの変化も2m以上あるようであり、評価が難しい。
 ちなみに、炭酸ガス濃度の上昇が気温上昇をもたらすのに対し、近年は地球自体は気温が低下する局面に入り、予想ほど気温は上昇しないとの意見も出されている。

2009年2月 8日 (日)

近世隠岐における人口と牛馬数の変動

 歴史人口学では、人口と並んで牛馬数も分析の対象となる。各地で作成される村明細帳には戸数・人口とともに牛馬数が記されているからである。
 近世を通じて人口は増加していくが、牛馬数の変動には地域差が大きい。歴史人口学のパイオニア速水氏の紹介した尾張国の例では牛馬数は減少し、その背景として従来の大家族・大経営から、核家族からなる小経営へと中心が移ったことが指摘されている。
 牛と馬の違いもある。出雲国では、牛は1軒あたりの保有数で比べると、平野部より山間部が多く、その差は幕末になるとさらに拡大する。馬は街道沿いで都市的な地域に多いが、後期以降東部で増加し、西部では減少している。江戸中期と幕末の牛馬数は、ともに後者が前者の倍程度、尾張国と違い増加している。
 隠岐国は、今年になって大相撲の十両力士が誕生し、その名も「隠岐の海」としたが、相撲とともにさかんなのが闘牛である。実際に訪れると島前には多くの牛をみることができる。近世にも博労の手により、隠岐から各地へ牛馬が送られていったが、17世紀末と明治初年を比較すると、牛は3割減(3,699→2,593)、馬に至っては半減(2,973→1,395)している。とりわけ島前での減少が目立つ。これに対して人口は17世紀半ば過ぎの15,911人が明治元年には29,731人と2倍近い数字に増えており、出雲・石見より増加率は高い。とりわけ島前の増加率が高い。
 この島前で顕著な人口の増加と牛馬の減少はどのような関係があるだろうか。当然、尾張国とは状況が違う。近世後期は山陰地方への北前船の来航が活発化したことが知られており、従来の牛馬の飼育と輸出に代わって、水運の拠点として商品流通に関わる人々が増えたことが原因だと思われる。

2009年2月 1日 (日)

PCの突然の故障(2)

  これも修理よりも、同じベアボーンのPCを手に入れることとしたが、オークションに複数のものがあったため、結果としてはNT300の中古とともに、プリウス210wnl4を落札してしまった。2台で手数料込みで3万円弱であったが、結果としては、いずれも「あたり」であった。プリウスは低電圧版(1.OG)であったので、これにコンパクトフラッシュを換装したところ、アクティベーションも必要なく起動した。
 一方、NT300は以前のHDDを入れたところ、これも問題なく起動した。付属したHDDで起動した際はバイオスの次で画面が真っ白になり(オークションでもバイオスの表示までの確認とされていた)、こちらの頭も真っ白になったが、換装したところ起動し、HDDの問題であった。5年前に購入したものはバニアスの1.4Gですぐに熱くなったが、止まることはなかった。それをドハン1.6Gに換装し性能はアップしたが、やはり熱くなる。オークションの商品はバニアスの1.7Gであったが、今まで以上に発熱する。ということで、オークションでドハンの低電圧版1.6Gを入手し、これにしたところ、発熱はかなり改善された。
 フルサイズのノートなら通常版で問題ないが、LIFEbook(13.3インチ)を含め、コンパクトな筐体のものは低電圧版がよい。とくにデュアルコアであるなら、ストレスなく使うことができる。
  ここのところ、歴史以外のテーマが続いたが、年度末を迎え仕事に追われることと、そろそろHPに進まなければならないため、しばらくは、気の向いた時にアップする程度としたい。ブログの記事の本数が増えてアクセスも以前よりやや増えたようであるが、しばらくの充電を。

PCの突然の故障(1)

  「7」導入のきっかけとなったi975xa。最後にこれにもインストールしようとするが、うっかりミスなどあって手間がかかる。外付けドライブをusb接続で使用とするが途中でとまる。それならばと、しばらく使っていなかったバッハローの外付けスーパーマルチを分解してドライブを取り出し、内蔵ドライブとして再試行するが、やはり途中で止まってしまう。原因は特定できないが、マザーボードとの相性であろうか、今回は断念することにした。収穫はフリーのパーティーション管理ソフトの存在を知り、実際に簡単に分割できたこと。
 inspiron9200の方も、アドビ・クリエイティブスーツcs2を使用するため、もとのHDDに戻してXPで使うことにした。結局、「7」は比較的新しいデスクトップで、32ビット版と64ビット版をデュアルブートで試用し、LIFEbookをXPと32ビット版のデュアルブートで使ってみることした。
 昨年9月には、まる5年に近づいていたendevor nt300がやはり突然起動しなくなった。この時も、SLCタイプのコンパクトフラッシュをアダプターでHDDとして利用しており、最後にCPUを低電圧版に換えて完成と思ったやさきのことでショックであった。

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