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2009年1月24日 (土)

城安寺と円成寺(2)

  そこで確実な資料で確認すると、 ①寛永10年閏2月に堀尾忠晴から乃木・善光寺に、城安寺となっていた旧地が返還されていること。②同年10月に堀尾忠晴が死亡し、翌寛永11年12月に京極氏が城安寺に所領30石を寄進していること。③同12年9月に京極氏家臣が富田城安寺に禁制を出していること。④寛文10年頃に城安寺が旧尼子殿土居に移っていることがわかる。
 ①は善光寺文書、②③は城安寺文書により確認できる。④は一次史料は残っておらず、寺伝によらざるを得ない。①により意外にも城安寺は荒隈ではなく、乃木に移されていたことが判明する。同じく富田から移転した洞光寺の目と鼻の先にである。富田城の臨済宗寺院の2つを松江分の堺に戦略的に置いたとの見方も可能となる。①の原因は城安寺が絶えたからとあるが、②③のように直後に富田で再興されている。再興先の富田は、もとあった広瀬の対岸で、寛文6年(1666)の洪水で水没する旧城下町の地である可能性が高い。洪水後旧城下町は広瀬に移されて再建された。城安寺にとっては広瀬が旧地でもあり、広瀬移転を希望したのかもしれないが、広瀬藩邸の場所も必要ということで、結果として新宮谷入口の尼子氏土居跡に移転し、その後水害を避けるため菅谷に移って現在に至っている。
 混乱が生じた理由は、堀尾氏の菩提寺で荒隈にあった瑞応寺を実質的に継承した円成寺が乃木・城安寺跡に建立されたことと、三つの寺がいずれも臨済宗寺院で住職間の往来があったことであろう。ここから城安寺は荒隈に移されたという誤解が生じ、訂正されずに現代に至った。円成寺は瑞応寺を継承し、旧城安寺跡地に建立されたが、二つの寺は無関係であった。

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