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一ノ谷合戦と出雲国(1)

 『源平盛衰記』の「一谷城構事」には、平家方として参加した出雲国の武士として、塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、横田兵衛維行、福田押領使の5名がみえるが、この数は西国でも多いものであった。このうち、福田押領使は大原郡福田庄(上賀茂社領)の武士と考えられ、実際に乱後は「宗遠」なる人物が地頭となり、その代官実法法師が乱妨を働いている。上賀茂神社の訴えを受けて地頭は停止されたが、ともかくも一旦は、謀反人跡の地頭が補任されたことが確認できる。
 ところが、長門本には、「塩屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白、横田兵衛惟行、富田押領使」とあり7名が記される。さらに延慶本の最古とされるひらがな本では、「えんやのたいふ、たくのしちろう、あさやま、きすき、みじろがいつたう、とんだのあふりやうし、よこたびようゑこれずみ」とあり、いずれも「福田」は「富田」となっている。
 富田なら摂関家領富田庄の武士で、平安末期に平家の関係者が富田城を築き、その後は出雲国の守護所がここにおかれたとされた場所であった。ただ、近年では、守護所は最初は松江市南部にあった出雲国庁に隣接して設けられ、後に出雲国西部の拠点塩冶郷に移されたとの説が有力となり、影は薄くなりつつあった。それが、ようやく、伝承の裏付けとなるデータが得られたことになる。

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