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2009年1月

2009年1月30日 (金)

Windpws7導入の顛末(4)

 いよいよ64ビット版の登場である。最初に32ビット版をインストールしたPCに、ノート用のHDDを接続した。以前のパラレルタイプだと3.5インチと2.5インチのアダプターが必要であったが、シリアルタイプではそのままケーブルに接続するだけ。Cドライブに対し、Eドライブと認識されたものに、64ビット版をインストールしたところ、64ビット版が起動すると、もとのドライブは表示されず、増設した元のEドライブをCドライブと認識している。Cドライブでないとまずいのだろう。ということで、このPCは32ビット版と64ビット版のデュアルブートとなっている。
 このアスロン用マザーボードはアナログポートとHDMIポートが装備されていたので、最初はアナログで接続し、次いで初のHDMIポートの体験となった。年末に購入したアクオスLC26-p1に接続するが、画面一杯ではなく、余白を残して表示され、且つ、文字も汚かった。そこでモニターの調整をし、文字はきれいになったが余白は残った。次いで、マザーボードに付属のCDから780用のチップセットドライバーをインストールしすると、そのユーティリティで、余白なしに画面一杯に表示できるようになった。
 64ビット版なので、比較的新しい一太郎2008オフィスなら動作するであろうと、インストールした。仕事に使うなら、ATOKは必需品で、MS-IMEではノイローゼになることもありそう。囲碁ソフトも「最強の囲碁 高速思考版」を入れたが、とりあえず動作している。アンバランスのHPをみても、64ビット版のことは述べてなかったが、問題はなさそうである。
 ということで、この原稿も64ビット版で作成しているが、32ビット版との差を実感することはない。メモリーも2Gしか搭載していないので、4G以上搭載した際の32ビット版との違いはわからない。とりあえず、起動した時点では、64ビット版はメモリーを660メガ程度使用し、32ビット版より150メガ程度多そうというぐらいか。32ビット版はなぜかパスワードを要求されないが(他のPCでは要求されるので、インストール時の問題か)、起動は64ビット版が早い。ただ、印刷などはまだしていない。はっきり言えることは、もしも元旦にPCが故障しなかったら、未だXPを使い続けており、いわんやマザーボード・CPUを購入することはなかったであろう。

Windpws7導入の顛末(3)

 Windows7が快調なので、ノートPCにもインストールしてみた。交換により余っていたHDDに新規インストールをしてみた。4年少し前に購入したDELLのINSPIRON9200で、シングルコアのペンMを搭載し、画面は17インチWUXGAであった。一度、メーカーのリコールで液晶を交換してもらった。元はLG製だったが、交換後はサムスン製となり、問題なく使っている。問題は、ビデオカードのMラデオン9700のメモリーが128メガで、XPならWUXGAで動作したが、アエロを使うVistaでは大丈夫であるかということだった。
 とりあえず、Vistaの事前診断ソフトで問題なしとのことであったので、思い切ってインストールしてみた。だめなら、元のHDDに戻すだけのこと。結果は当初こそUXGAまでの画面しか選択できず、両側が真っ黒であったが、いつのまにかWUXGAが選べるようになっており、アエロも問題なく動作した。動きの重さもXpとさほど違わない。
 次に、FMV・LIFEBOOKにも入れてみた。1年半ほど前に発売されたもので、当初はCELERON530が乗っていたが、情報を集めると、チップセットが960GLでもデュアルコアのCPUが動きそうであったので、オークションで購入した低電圧版(L7500)に換装した。問題なく動き、正しく認識された。これはHDDは2つのパーティションに区切ってあったので、Dドライブにインストールし、それまでのXPとのデュアルブートの形にした。これも問題なく動作している。

Windpws7導入の顛末(2)

 Windows7については、職場の同僚がシングルコアのペンティアムMでも動作し、Vistaより軽いとのことであった。インターネット上でも好意的レポートが多かったので、Vistaすら導入していなかったのが、Windows7βをダウンロードし、アスロン×2(4850e)で組んだものに新規インストールしてみた。すごぶる簡単にインストールは完了し、作業が行えるようになった。ただし、これは32ビット版である。
 一方で、中古のマザーボードを購入でき、それが届いたので動作確認をしようとしたところ、びっくりした。外箱とマニュアルがない以外はそろっているというはずであったが、CPUクーラーが純正とは違うものがつけられていた。その正体は不明なので、とりあえず、故障したものから純正のクーラー(とはいえ、ファンは今は無き高速電脳で購入した静音のものに交換)を移植したが、中古品購入の危うさを体験した。ちなみに購入したのは「じゃんぱら」から。
 それをなんとか組み立て、部品を付けて電源を入れたところ、無事起動したではないか。ほっとしたが、しばらくこのままで起動不能にならずに使えてほしいところだ。とはいえ、OSのXPPROについては、再アクティベーションを求められた。オフィスとアドビのソフトは問題なく利用できた。とりあえず、CPUの電圧を本来のものに固定したまま、T7200を2000→2640にアップして使用している。電圧をオートのままクロックアップすると電圧が高くなり、発熱しやすくなるので。とりあえず、順調に動いている。

Windpws7導入の顛末(1)

 年が明けたのを確認してからPCの電源を切り、7時過ぎまで眠ったが、起きて仕事をしようとしたら、PCの電源が入らない。ファンは回っているが、bootしない。自作PCなので、組み直したり、メモリーやCPU・電源を交換したりしたが、一向に事態は改善されず、マザーボードの故障のようだ。マザーボードはAOPENのi975xaというノート用CPUが使えるタイプだが、ネットで調べると、同じような故障(ある日突然起動しなくなる)が多いようだ。
 とりあえず、作業はノートPCで行うこととし、ブログの原稿をアップした。ただ、年末にデスクトップ用に目に優しいとの液晶を購入し、これに初めて接続したところで以上のような状況で大変ショックを受けた。修理もどの程度かかるか予想できず、オークションか中古ショップで中古のマザーボードを入手することとしたが、なかなか成功しない。同じマザーボードなら、マイクロソフト社とAdobe社のソフトのアクティベーション(認証)が可能であろうと思ったから。
 そうした中、つい、AMD用のマザーボード(MSI社製)とCPUの新品を合わせて1万2千円弱で購入してしまった。今、この原稿は、それで組んだPCに、Windows7のβ版、それも32ビットではなく、64ビット版で作成している。

2009年1月29日 (木)

中世の人口増加

 高校日本史では、鎌倉期の二毛作の普及や室町期の定期市の増加(三斎市から六斎市へ)などを取り上げ、その背景として生産力の発展をみているが、近年の歴史人口学は、中世における人口の停滞を主張する。そしてその成果は、小学館版『日本の歴史』7でも取り入れられている。
 確かに、二毛作というのは、秋に蒔いた麦の収穫が5~6月に行われ、その後に稲作を開始するというもので、どこでもできるというものではないようだ。ただ、以前から言われている、10世紀の和名抄と15世紀の拾芥抄の田の面積の数字は、表面上はさほど違いがないが、技術の進歩と肥料の投入により、土地の安定という実質的な面では大きな違いがあったという点は認めてよいのではないか。
 その意味で、歴史人口学で言われるところの奈良時代の人口については、誇大な数字である可能性が強いと思うが、どうであろうか。石見と出雲については、大田文とそれに準ずる史料が残っており、平安末期(12世紀末)の耕地面積がわかるが、それは10世紀の数字の半分でしかない。ところが、実際の土地の面積と大田文の数字の間には数倍のギャップがあることが、益田氏関係資料(永安別符の史料)からわかるのである。

なぜ間違ったのか(2)

 永久2年の正遷宮が誤りであることは、2003年に発表した論文で論証済みである(「中世前期出雲大社史に関する再検討-文書の声を聞く-」、このブログの題名の元でもある)。この「正しくは天永3年」の遷宮は、天仁3年(1110)に因幡国から流れ着いた大木100本によりとり行われたことで知られるが、それが漂着の4年後ではなく、2年後と、大変スピーディに行われた。白河院の近臣藤原顕頼のなせる業であろうか。
  注進状では現在の私たちもよく使う「同‥年」との表記がなされているが、天承2年(これも天永の誤り)の上棟の後に、唐突に永久2年10月と記し、同年12月24日に国司重任の宣旨が出されたこと、次いで同3年6月18日に遷宮が行われたことを記す。この「永久」が「天永」の誤りであった。そしてこの重任の宣旨のことを厳島神社神主佐伯氏が言及しているのである。
 2通の解状に戻ると、それぞれ間違いを記しており、これが在庁官人自身によって作成された可能性は低いのではないか。承久2年の史料が正確に記すように、国衙には出雲大社造営と遷宮に関する史料がきちんと保存されていた。それに対し、2通の解状は国造側が自ら国衙のものの一部を写しておいた史料や架空の史料に基づき作成し、それに在庁官人が署判したものであろう。その意味で2通の解状は、偽文書とは違うが、その内容は検討なしには利用できないものである。
 在庁官人がそれに署判したのは、②のように史料が失われていてわからないこともあったであろうが、もう一つの背景として、兼忠から宗孝への継承が単純ではなかったこともあろう。それまでの「兼」を名乗る系統から「孝」を名乗る系統に国造家の系統が変化している。

なぜ間違ったのか(1)

 建久二年に出雲国在庁官人らは、国司に二通の解状を提出している。①7月の内蔵資忠と国造孝房の杵築大社司をめぐる相論に関するものと②8月の国造孝房が先祖兼忠以前の文書を焼失していることに関する紛失状である。このうち、②については、紛失した文書が列挙されているが、平安時代前期から国司庁宣で国造に補任されていたことは事実に反し、裏付けがあるのは、11世紀半ばの国経以降のものである(『出雲国造系図』成立考」、日本海地域史研究第7号)。
 一方、①については、国経以降の出雲大社遷宮を示しながら、大社司は国造が務めるべきであることを説くが、その中で記されている永久2年(1114)の正遷宮は事実に反している。正しくは、天永3年(1112)である。そのことは、厳島神社神主佐伯景弘が仁安3年(1168)の解で、「杵築社」の先例を引いていることから確認できる。また、承久2年(1220)に在庁官人が大社造営を求めた訴えを出しているが、そこにも天永3年6月18日に正殿遷宮が行われたことが記されている。
 なぜ間違えたかといえば、出雲大社に残る造営遷宮旧記注進が写し間違いをしていたからである。これにより旧記注進は建久2年より以前に写されたもの(あるいはその写し)であることがわかる。

2009年1月25日 (日)

斐伊川と宍道湖

 斐伊川の東流前の宍道湖の水位はどうであったろうか。現在、宍道湖に流れ込む水量の7割は斐伊川のものとされるので、これがないと大変水位が低かったこととなる。ところが、斐伊川が西流していたとする『風土記』の記載をみても、現在宍道湖に面している地域の海岸線が大きく変わっていたことは、西岸を除けば、読み取れない。近世の東流以降、松江は水害に襲われるようになったなどとよく書いてあるが、何が根拠なのだろうか。
 『風土記』みると、確かに大川は西流して日本海に注いでいたことがわかるが、宍道湖との関係は微妙である。その間に二つの池、二つの江、三つの方(潟カ)があり、江について、源は田水の集まるところで、東流して入海(宍道湖)に入ると記される(『風土記』は沖森卓也外編、山川出版社による)。大川との関係が明記されていないが、東側からも一定程度の水量が、何本もの川を通じて宍道湖に注いでたことは確実であろう。
  現在の嫁ヶ島が全長120mであるのに対し、『風土記』時代の「蚊島」は周60歩=108mとあり、違いは僅かである。当時の気温なども水位に影響するが、それにしても現在の宍道湖の水位と『風土記』時代の入海の水位はそう違わないのではないか。とはいえ、『風土記』については拾い読みしたという程度であり、専門家の意見を聞いてみたい。

2009年1月24日 (土)

城安寺と円成寺(2)

  そこで確実な資料で確認すると、 ①寛永10年閏2月に堀尾忠晴から乃木・善光寺に、城安寺となっていた旧地が返還されていること。②同年10月に堀尾忠晴が死亡し、翌寛永11年12月に京極氏が城安寺に所領30石を寄進していること。③同12年9月に京極氏家臣が富田城安寺に禁制を出していること。④寛文10年頃に城安寺が旧尼子殿土居に移っていることがわかる。
 ①は善光寺文書、②③は城安寺文書により確認できる。④は一次史料は残っておらず、寺伝によらざるを得ない。①により意外にも城安寺は荒隈ではなく、乃木に移されていたことが判明する。同じく富田から移転した洞光寺の目と鼻の先にである。富田城の臨済宗寺院の2つを松江分の堺に戦略的に置いたとの見方も可能となる。①の原因は城安寺が絶えたからとあるが、②③のように直後に富田で再興されている。再興先の富田は、もとあった広瀬の対岸で、寛文6年(1666)の洪水で水没する旧城下町の地である可能性が高い。洪水後旧城下町は広瀬に移されて再建された。城安寺にとっては広瀬が旧地でもあり、広瀬移転を希望したのかもしれないが、広瀬藩邸の場所も必要ということで、結果として新宮谷入口の尼子氏土居跡に移転し、その後水害を避けるため菅谷に移って現在に至っている。
 混乱が生じた理由は、堀尾氏の菩提寺で荒隈にあった瑞応寺を実質的に継承した円成寺が乃木・城安寺跡に建立されたことと、三つの寺がいずれも臨済宗寺院で住職間の往来があったことであろう。ここから城安寺は荒隈に移されたという誤解が生じ、訂正されずに現代に至った。円成寺は瑞応寺を継承し、旧城安寺跡地に建立されたが、二つの寺は無関係であった。

城安寺と円成寺(1)

 18世紀初めにまとめられた『雲陽誌』は、近世前半の出雲国内を知る上で貴重な情報を提供しくれる地誌であるが、もとより特定の意図を持ったものであり、また、地域により情報の精粗もみられる。ここで取り上げるのは、ここで誤りが記されたため、虚像が実像となった例である。
 城安寺は、富田庄(現安来市広瀬町)に鎌倉後期に開基された臨済宗寺院であるが、城下町の移転により、近世初頭には松江城下に移された。ところが、現在は広瀬町(菅谷)にあり、17世紀中頃には旧地に戻っている。これに対し、室町後期に尼子氏の菩提寺として開基された洞光寺や浄土真宗誓願寺の場合は、松江と広瀬の両方にあり、どちらが本寺かをめぐって訴訟が行われている。旧城下町に広瀬藩邸が置かれたことにより、二つに分かれたのであろうか。城安寺とは少し事情が異なるのかもしれない。
 臨済宗円成寺は、堀尾氏の菩提寺で、元来は宍道湖北岸の荒隈に瑞応寺の名で開基されたが、堀尾氏が断絶して京極氏が城主となると、乃木の地に円成寺として移転・再建されたものとされている。その地は、時宗善光寺(佐々木高綱開基、乃木希典の供養塔あり)の跡地とも、堀尾吉晴と関わりの深い春龍和尚の別荘地であったともいわれる。『雲陽誌』では瑞応寺について、吉晴がはじめて建立した寺院との記載(法吉・天倫寺)もあれば、城安寺を移して瑞応寺としたとの記述(乃木・円成寺)もあり、混乱がみられる。

2009年1月18日 (日)

三隅氏領について

 13世紀前半に三隅氏が益田氏から独立した際の、所領は三隅郷(納田郷)、木束郷、永安別符、井村の4箇所であるとされる。この点について再検討してみたい。
 4箇所の根拠は仁治3年の三隅兼信譲状に、前年に嫡子太郎兼村に4箇所を譲り、幕府の安堵の御教書を得たとあることによる。それを悔い返して乙法師に永安別符と益田庄内小弥富などを分割して譲ったのである。
 この4箇所について貞応2年の石見国大田文の面積を合計すると、52町1反となる。これに対して、周布兼定が譲られた所領を合計すると、91町200歩となる。ちなみに、益田兼高から嫡子兼季に譲られた所領が、後に弟の兼信と兼廣に分割され、益田兼季から嫡子兼時に譲られた所領が後に、兼時から弟兼定に配分されている。父の死亡する前後に再分配が行われているのは共通している。
 三隅氏は南北朝期以降、惣領益田氏と激しく対立した。そのイメージとこの所領が周布氏よりはるかに少ないというのはズレがあるのではないか。ちなみに福屋兼廣領と思われるもの(福屋郷に大田文で福屋氏知行を注記されたものを加える)を合計すると53町4反180歩と、三隅氏に近い数字である。大田文の数字そのものは現実の田数とな異なっているが、同じ条件での比較には有効であろう。
 福屋氏領についても、考える必要があるが、ここでは、三隅氏領であった可能性の高いものとして、小石見郷と益田庄内弥富名をあげよう。小石見郷は南北朝初期から周布郷との境をめぐって三隅氏と周布氏が対立している。鎌倉中期以降に益田氏ないしは三隅氏領から東国御家人領に変わったと思われ、建武2年には益田氏惣領に与えられているが、実際は、南北朝期には三隅氏が小石見郷を支配していた。鎌倉期にも三隅氏領であり、それが一族に分割相続されていたのではないか。
 弥富名は、13世紀後半には益田兼長と結婚した阿忍領であった。問題はそれが、夫兼長の死後、伊甘郷とともに兼長領を配分されたものか、阿忍が父三隅兼信から継承したかということである。後に弥富名は阿忍から3人の孫に譲られ、そして益田兼見が支配するところとなったが、小弥富を支配する永安氏との間で対立が続いている。この2つの所領が三隅氏領となるとその合計は84町5反60歩となる。確定はできないが、検討してみる必要がある。

出西郷について(3)

 出雲市西園町の長浜神社は、国引き神話との関係で知られるが、江戸末期には、それまでの妙見社を「出雲神社」に改めたいとの申請をしている。それに対する藩(?)からの回答は、出雲神社は式内社でもあり、調べた上で確認するので、当座は長浜神社とするようにとのことで、そのまま現在に至っている。
 以上の史料は、長浜神社社家秦家に伝わった文書であったが、現在は、早稲田大学図書館が所蔵している。いつかの時点で秦家の文書は2分割され、その一方は今でも秦家にあるが、残りの一方は古書店を通じて早稲田大学が入手したのである。その中には尼子氏や毛利氏関係の中世文書も含まれている。
 この史料をみた時点では、予備知識がなく、「そーだったのか、しかし、出雲大社との関係もあって認められることは難しい」と思った程度であったが、よくよく調べてみると風土記の出雲神社は出雲郡内(中世の出西郷付近か)であるのに対し、長浜神社のある場所は神門郡であった可能性が強く、単純ではない。
 本ブログの立場は、幕末~維新期に出雲国では多くの神社が風土記時代の名称を復活させていることについては、懐疑的である。これこそ、せっかく歴史を経過して変化発展してきた歴史を忘却し、古代の一時期と近代を一直線に結びつける「虚像」につながる行為だと思うからである。そこで風土記時代の神社名をめぐる争奪戦があったことについてもすでに触れた。
 とはいえ、この文章の主題は出雲大社領の大田郷についてである。康元元年(1256)の大社領注進状にみえず、その比定地が確定していない。井上氏は「阿語大田郷」との表記が弘安年間にみえることから、「阿宮」の地に比定されるが、「大田」の名称(阿宮は出雲郡の端にある)と、そして、大田郷が注進状にないのは不可思議であるとの立場から、本ブログの考えを述べてみたい。
 出西郷の北側に隣接する富郷については建暦3年の領家御教書で「於出西郷・同富」と表記されるように、出西郷から分かれたものと思われる。注進状で「出西本郷」と記されるのはそのためであろう。これに対し、「大田郷」は建久年間の正遷宮時に国司から寄進された形をとっている。一方、風土記には郡家の西北二里百二十に神戸があり二つの里からなるという。これが、中世に「大田郷」へと発展し、注進状の「北島村」、「千家村」
に相当すると思われる。なぜ、国造家が分立し、その2家がすぐに千家、北島を苗字とするのかという点もこれにより説明できるのではないか。
 これが100本目となったので、しばらく充電期間とし、本ブログへの意見などを受けて再度考えていきたいが、たまには更新するかもしれない。

出西郷について(2)

 本ブログでは斐伊川の東流が出雲郡の領域縮小と「出東郡」への名称変更をもたらしたとの説を示した。では「出西郷」の名称は何を意味するのだろうか。古代の「出雲郷」の地域(一部)が「出西郷」となったのは間違いない。
 東出雲町西部は「出雲郷(あだかえ)」である。知らないと絶対読めないが、古代には「阿太加夜神社」があったことから、古代の「舎人郷」の西端の地に成立した出雲郷にこの読みを充てたのだろうか。ただ、中世にどう読んだかは不明である。戦国期以降は出雲郷内北側が「阿陀加江」と呼ばれている。
 出雲国府は意宇郡に所在し、その東に隣接する地が「出雲郷」とされたのに対し、古代の「出雲郷」はこれと区別するため「出西郷」となったのでないか。ちなみに中世の「出雲郷」は公領としては最大の面積(105町1反半)を誇り、承久の乱後は上野国御家人多胡氏が地頭となっている。平安末期には出雲国衙で最も有力な在庁官人(勝部宿禰惣領)が支配していた可能性が高い。
 中世の出雲国衙は大草郷にあったと思われるが、その周辺地域の承久の乱後の地頭は、神魂神社領となった大庭・田尻保を除けば、東国御家人である。大橋川沿いまででもわずかに津田郷の地頭が秋鹿氏女子であった。おそらくは、源平争乱後、この地域のかなりの所領が東国御家人に与えられ、次いで、承久の乱によりその傾向が強まった。乱前では、山代郷と平浜八幡は地元の武士領であった。

出西郷について(1)

 現在の斐川町西南部にある「出西」は中世の出西郷にちなむものである。昭和30年の町村合併までは、周辺の求院、併川、神氷、阿宮を併せて「出西村」と呼ばれた。これに対し、東北部の黒目、中州、沖洲、坂田、三分市の地域が「出東村」であった。
 ところが、すでに述べたように「出東」の方は中世の「出東郡」にちなむものである。そのためか、近世に「出雲郡」が復活しても読みは「しゅっとうぐん」のままであった。このように対をなす「出東」と「出西」の地名であるが、その関係は、近代の一時期を除けば単純ではない。
 この問題については、このブロクではおなじみの井上氏の見解がある。前に述べたように中世前期の島根県域について、きちんと論拠を示して従来の説を更新できるのは2人しかいない。井上氏の説は理論的であり仮説から次々と新たな提言がなされ貴重であるが(史料発掘と公開はさらに重要である)、それを継承して研究を進める必要がある。ところが、それを批判的に検証する作業をする人が決定的に不足している。
 井上氏は、出東郡に対して出西郷があり、出西郷が成立して周辺地域とともに出雲郡から神門郡に編入されたことで、領域の縮小した出雲郡が「出東郡」となったとの説を提示された。ところが、肝心の出西郷が神門郡であったかどうかは史料がなく不明である。出雲大社領の成立との関係を述べられるが、出西郷の北側にある千家・北島の両村は出東郡であったことが確認でき、出西郷も出東郡であった可能性が高い。

2009年1月12日 (月)

虚像と実像(2)

 「大本営発表」という表現を使ったが、考古学の捏造事件と、前に述べた「歴史は古ければ古いほどよいことが誤りである」ことを思い出していただきたい。捏造した当人が悪いのは当然だが、それ以上に、「古ければ‥‥」との思いが、検証すべき立場の人間のチェックを弱くしてしまったことが問題である。
 新たな仮説を提示した側は、自分なりの分析・視角に基づき述べており、その問題点に気づかないことがある。それに対し、周辺の研究者がその点に気づいて指摘することが研究者としての責務である。従来の説に対し、「時代を新しくしたり」、「規模を小さくする」見解に対し、「古くしたり」、「規模を大きく」する見解に対するチェックが甘くなりがちということ(希望的観測の問題点)を述べているのである。
 素朴な疑問として、より高い神殿を建築したいとの思いは古い時代のほうが強かったかもしれないが、技術的な裏付けという点では、新しい時代が勝っている。たとえ神社建築であれ、建築学的な立場からは技術の進歩を明らかにするのが学問的課題ではなかろうか。また、古代は強固な律令制の時代で、中世は分裂の時代との考えから、古い方が高かったとの説が出るかもしれないが、人口にみられる経済力や技術面からみると、中世の方が古代よりかなり勝っている。こうした常識的観点は歴史をみていく上で必要ではないか。

2009年1月11日 (日)

出雲大社本殿の高さ(2)

 東大史料編纂所の史料データベースで「北島家譜(の写本)」をみることができるので、確認してみた。該当史料は北島家譜(一)の写真番号0940と0941にあるが、原本そのものがページが前後していたのか、遷宮儀式の記録と正殿の規模の記録、さらには神宝抜書が混在しており、整理すると、0921に続いて940と0941があり、次いで0930、0931、0950‥‥という順番が本来のものである。
 すなわち、遷宮儀式の記録に次いで「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」として正殿式の方尺を記し、次いで「一 建長元年八月御遷宮御神宝抜書」として神宝が列挙されている。これにより、宝治2年の本殿(遷宮儀式は翌建長元年に行われた)の高さは8丈と断定してよいと思うが、①②は何だったのだろうか。きちんと史料を確認せずに、希望的観測に基づいて考えている。浅川氏は絵図から3説を考え、その真ん中の説で模型をつくられており、根拠は示されているが、出雲大社の神郷と本殿を描いた絵図の中では目的から、または技術的にも本殿を高くかかざるを得ないのではないかという点を差し引いて考えなければならない。
 以上、史料がある、宝治2年の出雲大社本殿の高さについて述べた。前に神魂神社本殿の年代について述べたが、研究は「大本営発表」から決別しなければ、百害あって一利なしだ。

出雲大社本殿の高さ(1)

 古代出雲歴史博物館には5つの出雲大社本殿の復元模型が展示されているとのこと(未だ現物をみていない)だが、そのうち、浅川氏と三浦氏のものについては、研究室のHPで根拠を知ることができる。浅川氏『出雲大社』(日本の美術476、至文堂)によると、2000年の柱発見を受けて、①48M説が2、②40M説が2、③24M説が1という状況である。
 2000年発見の柱は当初、古代のものと言われたが、もとより希望的観測以外のものではなく、出土遺物から宝治2年(1248)の正殿遷宮のものであると確定された。この遷宮については、北島家文書と北島家譜に関係史料が残されている。宝治2年の遷宮は出雲国司と守護佐々木氏の協力で行われた中世最後の正殿遷宮であった。以後は仮殿遷宮しか行われなかった。
  この遷宮については、『大社町史』史料編(番号241)に「宝治2年当時のものか」として、北島家譜の史料が掲載されている。そこでは「杵築大社正殿式之方尺」として「高サ8丈、但自下津磐根至于千木之上端」と記されている。この史料に基づけば、宝治2年の遷宮の本殿の高さは24M(8丈、③)としかならないが、なぜ①②との説があるのか不思議に思っていた。浅川氏の本では宝治2年の本殿を描いた絵図が判断材料とされていた。

2009年1月10日 (土)

承久の乱と出雲国(2)

  朝山氏における承久の乱の影響としては、惟元の嫡子惟綱ではなく、庶子元綱の系統に惣領が代わっている。昌綱は元綱の子であった。元綱の兄弟には佐陀神主となった長元や「石坂」を苗字とする貞元がいるが、石坂は東国御家人恩田氏が地頭となっていた。
 一ノ谷合戦に参加した多久氏については、建久5年の在庁官人連署解状にみえた明元(万田庁事)の子明政が系図では「多久太郎」で承久の乱で討ち死にしたことが記されている。この跡は東国御家人が地頭となった。同じく解状にみえた孝光の子には平田庁事明廣と「」法吉」を苗字とするものがみえるが、いずれも乱後は東国御家人が地頭となっている。
 これに対して、解状にはみえないが、系図では明元と孝光の兄弟とされ、多祢庁事をつとめた資元の系統をみると、その孫に「建部七郎」政元がみえるが、建部郷にも承久の乱後には東国御家人が入部していた。
 建久5年の解状に署名していた中原氏と藤原氏についても、秋鹿郡秋鹿郷、同伊野郷、出雲郡漆治郷のいずれも乱後は東国御家人が地頭となっている。秋鹿郷を支配した頼辰についてはその子孝高が乱の直前には出雲大社惣検校となって国造と対立したが、乱後は勢力が衰えたと思われる。以上のように一ノ谷合戦に参加した7氏の所領のうち、承久の乱後、出雲国の御家人が地頭であったのは朝山郷と別に述べた横田庄(三処氏)のみで、承久の乱の影響は大きかった。

承久の乱と出雲国(1)

 久安元年(1145)の出雲大社遷宮の史料にみえる庁事5名が当時の出雲国衙の有力在庁であったと思われる。記載順からすると「孝盛」が筆頭であったのに対し、鎌倉時代の筆頭朝山氏の祖となり、大原郡佐世郷を支配していた「元宗」は5番目に位置していた。それが、源平争乱後の在庁官人筆頭は「勝部助盛」で、当時の勝部宿祢惣領であった。それに続くのは、中原、藤原といった「朝臣」系の人々で、さらにその後に「宿祢」系の出雲、勝部両氏が続いている。その中に、塩冶郷を支配した「勝部政光」や朝山郷を支配した「勝部惟元」がみえている。朝山氏関係系図には助盛、政光はみえず、勝部宿祢一族であるが、惟元と兄弟関係にはなく、それ以前に分かれていた。
 これに対し、建長元年(1249)の出雲大社遷宮史料では、在庁官人筆頭は惟元の孫昌綱であった。承久の乱では、出雲国知行国主源有雅は後鳥羽の側近で、出雲国守護も京方で没落している。在庁官人にも没落するものが多く、その跡は一族の別の人物や東国御家人が継承した。鎌倉初期の筆頭助盛がどこを支配したかは不明である。塩冶郷については新守護佐々木氏が支配しており、塩冶氏は没落し、助盛系もその一族内の地位は低下したと思われる。

一ノ谷合戦と出雲国(2)

 益田家文書には、益田兼高に対し、出雲国へ打進み岐須木次郎兄弟2人と横田兵衛尉等を討伐せよとの元暦元年5月の文書が残されている。従来は、『源平盛衰記』に「岐須木氏」がみえないことが問題となっていたが、古本を見ることにより、両者は一致することが確認できた。長門本の「朝山、木次」が「朝山紀次」となり、身白が消えてしまったのである。さらに延慶本では「あさやま、きすき、みじろがいつたう」と記される。他の4名が苗字+αの表記に対して、この3名は苗字のみである。
 まず、岐須木二郎兄弟二人と木次・身白が対応する。身白(三代)は木次とともに大原郡であるが、斐伊川にも面しており、朝山郷のある神門郡と大原郡をつなぐ位置にある。別の箇所でも述べたが、鎌倉期の朝山氏は大原郡佐世郷を支配した一族が継承している。以上の点からして、朝山・木次・身白3氏には近い血縁関係があったと思われる。
 益田家文書にみえない一族については、一ノ谷合戦で戦死したものと、出雲国に逃げ帰ったものがあり、後者=岐須木二郎兄弟と横田兵衛尉に対して追討命令が出されたのだろう。塩冶、朝山、多久、富田氏についても、所帯が没収され、一族の他の人物が継承を認められたり、東国御家人が地頭に補任されたと思われる。7氏のうち、福田庄のように東国御家人が入部した可能性が高いのが東部の富田庄である。

2009年1月 8日 (木)

一ノ谷合戦と出雲国(1)

 『源平盛衰記』の「一谷城構事」には、平家方として参加した出雲国の武士として、塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、横田兵衛維行、福田押領使の5名がみえるが、この数は西国でも多いものであった。このうち、福田押領使は大原郡福田庄(上賀茂社領)の武士と考えられ、実際に乱後は「宗遠」なる人物が地頭となり、その代官実法法師が乱妨を働いている。上賀茂神社の訴えを受けて地頭は停止されたが、ともかくも一旦は、謀反人跡の地頭が補任されたことが確認できる。
 ところが、長門本には、「塩屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白、横田兵衛惟行、富田押領使」とあり7名が記される。さらに延慶本の最古とされるひらがな本では、「えんやのたいふ、たくのしちろう、あさやま、きすき、みじろがいつたう、とんだのあふりやうし、よこたびようゑこれずみ」とあり、いずれも「福田」は「富田」となっている。
 富田なら摂関家領富田庄の武士で、平安末期に平家の関係者が富田城を築き、その後は出雲国の守護所がここにおかれたとされた場所であった。ただ、近年では、守護所は最初は松江市南部にあった出雲国庁に隣接して設けられ、後に出雲国西部の拠点塩冶郷に移されたとの説が有力となり、影は薄くなりつつあった。それが、ようやく、伝承の裏付けとなるデータが得られたことになる。

2009年1月 4日 (日)

島根県の歴史的特性の一つ

 島根県の特徴としては、海岸線の長さをあげることができる。石見国がその代表であるが、隠岐国は周囲を外海に囲まれており、出雲国も中海・宍道湖の内海部分を併せたら大変なものであろう。一方、中国山地を越えて山陽につながる陸路も人と物の流れで重要な役割を果たした。だから各地に港や市場が多数成立した。市というのは大から小までさまざまなタイプがあり、地名を確認すると、文書で確認できるより遙かに多くの市関係の地名が確認できる。その中の一部が、戦国期の町となり、さらには松江が城下町となったことを受けて再編成がなされ、近世の町が誕生した。前回書いたが、出雲郡では各地の市の中から選ばれて直江と庄原が戦国期の町となったが、松江や宍道に近いこともあり、庄原は松江藩の下では町とは認められなかった。
 市の地名には①「三日市」「六日市」といった三斎市や六斎市に因むものと②それ以外(地名+市や業種+市など)があり、地域で特色もある。市が成立するには神の加護が必要なので、恵比須神社や熊野神社が隣接することも多い。そうした中、隠岐国には「~市」という地名がみあたらない。その原因は今後の課題であるが、どこからでも外につながっており、島そのものが市であるといってもよいので、あえて個別の市は必要なかったのではないかというのが、とりあえずの仮説である。市に関して述べたいことは多々あるが、公開を前提とするブログではこのぐらいで。

福頼庄について

 出東郡の縮小を述べたが、それは西部についてであり、東部の宍道湖側は、斐伊川の東流により土砂が堆積し、土地が増え、新たな村が成立している。寛永10年の堀尾山城守給知帳では、出東郡1万5160石と、秋鹿郡、楯縫郡の石高を上回っている。直江と庄原が東西の中心となるが、町として扱われたのは直江だけであった。
 東部の庄原は戦国期から史料に登場するようになるが、元々、庄原から南側の学頭にかけての地域は摂関家(近衛家)領福頼庄があった。長らく所在地不明とされてきたが、出雲国内で最も早い時期に成立した荘園の一つで、その規模も文永8年関東下知状では99町5反大と大きかった。下知状での記載順や同じグループの所領からすると、以上のような結論にならざるを得ない。斐伊川の本格的東流も平安末期から鎌倉前期にまで遡り、出東郡東部の土地の形成もこれまで考えられていたよりも早くから進行していたと思われる。文永8年にみえる所領のうち、志々墓(塚)保は現在の原鹿の地に所在し、その南側には福富保もあった。これらの所領の成立も平安末期にまで遡る可能性が大きい。これまでなぜ、このような明白な事実を踏まえずに議論されてきたのか、同じことは石見国益田庄でも感じたが、不可思議としか表現のしようがない。

出東郡の成立

 古代の出雲郡が中世には出東郡に変わるとともに、領域が縮小した。近世には再び出雲郡の名称が復活したが、領域はさらに減少した。この点について、井上氏が『大社町史』で整理されている。前者を中世的所領の成立、後者を戦国大名尼子氏の支配との関連で述べられるが、斐伊川の流路変更の問題が大きいと考える。
  前者については、斐伊川の東流が本格化することにより、出雲郡内が分断された。このため、その西側が神門郡に編入され、縮小した出雲郡が出東郡となったのではないか。後者では、斐伊川の西流が基本的に消滅するとともに、平野部の流路が現在のように西側に移動した。この結果、神門郡の一部(大社領)が川の東側となった。それに伴い、元々東側にあった千家・北島・冨・出西などの大社領も神門郡に編入され、大社領=神門郡となったのではないか。さらには、川の北西に位置した宇賀・美談・国富などは楯縫郡に編入され、出東郡の領域が縮小した。これが近世の出雲郡につながっていく。

2009年1月 3日 (土)

中世の斐伊川(3)

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   文章だけでは分からないので、略図を作成した。「→」は川を渡ることを示している。古代には杵築社の場所まで出雲郡に属していたが、鎌倉後期には神門郡に変わり、出雲郡は「出東郡」と呼ばれるようになる。その背景にはCの東流路が本流となったことが考えられる。

中世の斐伊川(2)

 記載順は①遙堪郷、②同沢田、③高浜郷、④同沢田、⑤稲岡郷、⑥鳥屋郷、⑦武志郷、⑧同新田郷*、⑨同別名村、⑩出西本郷、⑪求院村、⑫北島村*、⑬冨郷*、⑭伊志見村、⑮千家村*、⑯石墓村である(*は河成あり)。
 沢田は西流沿いの遙堪郷と高浜郷にみえる。稲岡郷と鳥屋郷にはないが、武志郷には新開発地である新田郷と別名村がみえ、新田郷に河成が含まれている。⑨の新田郷と⑩出西本郷は離れており、⑨と⑩~⑬の間には斐伊川が流れていたのだろう。現在は、鳥屋郷と別名村の地は川の東岸だが、当時は西岸であった。大社に近い遙堪郷から東へ検注を行い、⑨で川を渡り、今度は南側の⑩から検注し北へ向かったと思われる。⑬北島村に続いて離れた⑭伊志見村の検注をした上で、⑮千家村に戻り、ここから再度川を渡って対岸の⑯石墓村が検注の最後となった。斐伊川を北流して⑧までの部分(A)とここから西流する部分(B)、さらには東流して宍道湖に向かう部分(C)に分けることができる。Bには沢田はみえるが、河成はみえない。これに対してAとCに河成がみえている。ここからすると、この段階で、斐伊川の本流(水量が多い)はすでにCに移っていたと思われる。そしてCは現在の斐伊川より東側を流れていた。中世における平田の発展の背景に東流部分が本流となっていたことがあったであろう。

中世の斐伊川(1)

 斐伊川の本流は風土記の時代は杵築(大社)から日本海に注いでいた.。近世には宍道湖へ注ぐようになったとされるが、問題はその変更の時期である。近年、確認された出雲国絵図により、東流の時期は従来の寛永年間から慶長年間にまでさかのぼりつつある。(付記:現存する慶長国絵図は寛永年間に校訂されたものなので、慶長年間の情報であるかどうか問題がある)。斐伊川の東流は、河口部の杵築の地位の低下をもたらしたとも言われている。
 他方、その本流は現在より平野部の東側を流れていたとの見解も出されている。明応5年(1496)の冨郷では「川除之井料米」として、毎年水かさが増した際の米2俵と、「大儀」に切れかかる場合は別に相談するこが記されている。ここから、冨郷内を斐伊川が流れていると考えたのである。
 康元元年(1256)12月に領家が派遣した惣検注使と国造義孝により、出雲大社領注進状が作成されている。その所領の記載は実際の検注の順序に基づいており、且つ、その中には沢田(湿地)分や河成が記されている。これをみることにより、当時の流路を考えてみたい。

気温と日本の東西(3)

 年平均気温については、近年の具体的データをみながら考えていく必要がある。というのは、厳冬の年は夏の気温が高くなることが多く、暖冬ならば冷夏になりやすいということも知られている(夏の気温が高いと‥‥冬の気温が‥‥ではない。またこの場合の夏とは北半球側を指している)。ということは各季節、月で比べると、年平均気温の2倍程度の差がみられるのである。 また、気温の根拠となる屋久杉の年輪データは1~2月の気温により成長の幅が決定されるとのことである(屋久杉のデータでは最大6度強の差が見られるが、これは冬の差で、年間では3度強の差にとどまるということ)。
  一方、前島郁雄氏は弘前藩庁の弘前と江戸の記録に基づき、江戸時代は小氷期であったことを述べた。倉地克直『徳川社会のゆらぎ』(日本の歴史11)はこの成果を引用しながら述べられている。とくに①1610~50,②1690~1720、③1820~1850の3期が非常に寒冷であるとされている。①②は屋久島杉のデータと一致するが、③は異なっている。東日本は寒冷であったが、西日本はそうではなかったということであろうか。いずれにせよ、各地域をみるさいには、その地域自身のデータを利用しながら使っていく必要がある。

2009年1月 1日 (木)

気温と日本の東西(2)

  ①の時期は、畿内中心の政権が誕生したのに対し、②の時期になると、西日本では飢饉が続き、聖武天皇の鎮護国家の思想が登場する。そして東国の成長が著しいなか10世紀半ばの平将門の乱は失敗したが、鎌倉幕府が成立する。③この時期に北条氏は西国支配を強めるが反発を受け、幕府が滅亡し南北朝の動乱が続いた。④動乱は京都に室町幕府が成立して終結したが、東国の鎌倉府が自立性を強め、幕府は衰退する。⑤この時期は畿内から東海地方にかけての勢力が中心であったが、最後にどんでん返しで、江戸幕府が成立する。当初は畿内・西国が経済の中心であったが、⑥気温の上昇とともに関東地方が発展し、現在に至るまで西日本の位置は低下している。
 平野部と山間部については、⑤の時期の出雲国では、山間部の人口が停滞したが、⑥になると平野部の人口が伸び悩んだ。とはいえ⑥の時期には機械文明が日本にも成立し、気温のハンデよりも、地域的優位性が優越し、明治以降の人口増加の中心は平野部に移る。

気温と日本の東西(1)

 網野善彦氏には『東と西の語る日本の歴史』という著書があり、日本が2つの国家に分かれる可能性があったことや、東西の文化の違いについて述べられていた。近年は、気温の上下と東西の人口の増減の違いについても明らかにされてきた。
 簡単に言えば、平均気温が低いとその影響の低い西日本中心に人口が増加し、逆に高いと、東日本中心に人口が増加するのである。東日本中心と言えば縄文文化であるが、この時期の気温は高く、海面が上昇したことにより日本列島が形成された。続く弥生時代は気温が低く、西日本中心の新文化が生まれた。それ以後については、以下のとおり。
 ①古墳時代から奈良時代前半にかけては、一時的に気温が上昇したが、全体的には低い時期が多かった。これが②奈良時代後半以降から鎌倉中期までは高い時期が多かった。次いで③13世紀後半から14世紀前半は低い気温が続き、④14世紀後半から15世紀半ばまでは気温は高かった。 そして⑤15世紀後半から18世紀末まで低い気温の時期が多く。⑥19初めから現在に至るまでは概ね気温の高い時期といえる(各時期の気温については鬼頭宏氏『図説 人口で見る日本史』を参照)。
   気温の違いは平野部と山間部にもあてはまり、気温が低い時期は平野部が人口増加の中心で、逆に高いと、山間部の人口が増加する。

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