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2008年12月31日 (水)

岸本左一郎(7)

 大田市仁摩町天河内の満行寺前の丘に今も残る左一郎の碑に刻まれた本因坊秀和の追悼文を以下に示す。大森に住み中国地方各地に指導に行った。囲碁史の本などによく書かれている、本因坊家の塾頭であったが、病気のため帰郷したという記述は正しくはない。3度目の上京で嘉永5年から7年まで滞在し、途中京都に立ち寄ってから大森に帰っており、当初の予定通りの行動であった。毎年1局ずつ秀策と黒番で対局し、3連勝直前で見落としで敗れたことはよく知られているが、地方にあって囲碁の普及に力を入れるようになって、左一郎の棋力は上昇し、秀和、秀策との差を詰めている。大器晩成のタイプでもあったろう。

岸本左一郎者石見国大森人也。天性善棋。父母知其不凡蚤擇其師迺來于江都、師事吾丈和先生。時季十七。先生亦器之教導不懈故忽象山奇功。数施王粲之才智、十八歳而進于四段、且為人生孝不欲長在他国故、此年帰国、訪其父母焉。嘉永六癸丑再來。子東武同年九月余賞其業不怠、段加一級。然而子在東都也、盛奮 威雖老練高手不得以不摧心膽矣嘉永七申寅七月更賞其功授六段。安政五龍集戊午七月卒于其国年齒未満初老嗚呼天歟命歟。都鄙聞之莫敢不惜也間者彼門弟子來請贈段余以為儻僅加一階、則位在上手乃棊門将位豈容易許之耶。雖然使彼今猶在、必己得其位、諺曰死孔明走生仲達。有餘力者殆皆如斯。因贈以七段庶幾霊魂其欣之
 萬延元年庚申七月六日    本因坊秀和 印
(書き下し) 岸本左一郎は石見国、大森の人なり。天性棋を善くす、父母其の不凡を知り、其の師を蚤擇す。迺ち江都に来たり、吾が丈和先生に師事す。時に季十七、先生亦器之教導懈らざる故に、忽ち象山の奇功を遂る。數施王粲之才智、十八歳にして四段に進也。且つ其の人なり生まれつき孝にして長く他国に在を父母を訪ねる。焉に嘉永六年癸丑再び来る。子、東武同年九月、余、其の業怠らざるを賞し、段一級を加う。然して子東都に在るや、盛奮乕威、老練高手と雖、心膽を摧かざるを以て得ざる矣、嘉永七年甲寅七月、更に其の功を賞し六段を授る。安政五年龍集戊午七月其の國亏卆、年齒初老に満たざる。鳴呼天歟、都鄙之を聞き、敢て惜まざる莫と也。間者彼門弟子来り贈段を請う。余儻を為すを以て僅に一階を加う。
則ち位上手に在り、上手乃棊門の将位、豈容易に之を許耶、然りと雖、彼の使今猶在、必ず其の位を得己、諺に日く死せる孔明生くる仲達を走らす。餘力有者、殆ど皆斯くの如し。因りて七段を以て贈す、庶幾くは霊魂其れを欣ばんを。

 萬延元年庚申七月六日 本因坊秀和(印1)(印2)

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