尼子晴久(11)
天文15年から出雲大社の造営が開始され、19年に遷宮が行われた。次いで大内義隆が陶氏に殺害された直後の天文20年10月に晴久は美作国へ出張するとともに、本願寺と連絡を取っている。さらに天文21年3月には出雲大社に法度を定めるとともに、相伴衆に加えられ、翌4月には将軍義藤御判御教書で因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の6カ国守護に補任されている。大内氏滅亡後の安定勢力として期待されるとともに、尼子氏からの働きかけが功を奏したのだろう。6月には実質的に支配する出雲・隠岐国の2カ国を含む幕府奉行人奉書を与えられた(なぜか美作国を欠く)。
この守護補任を契機に、晴久は体制の再編成を行う。自らの花押も大型化し、足長となるなど、それまでとは明確に異なったものとなる。それまで尼子氏家臣で受領名を冠するものは限られていたが、晴久の側近に、多賀対馬守、立原備前守、河副美作守、本田豊前守、中井駿河守などのように受領名を冠するものが増加する。新宮党についても、国久が紀伊守に、寵愛を受けた子の敬久が左衛門大夫に任官している。
国久は大内氏敗退後に塩冶に入り、出雲国西部に対しては晴久の命を施行する文書を出した。天文16年には、佐木浦と宇道浦の問題に対し、国久が宇道地下人へ命令を出したことに対し、晴久から自分の命を施行するのが国久の役割であると異論が出されたこともあった。天文21年に出雲大社の社役をめぐり、北島方の佐草氏と千家方の井田氏の間で紛争が起きたが、その際に国久は晴久の側近多賀久幸と連絡をとって対応している。それが天文23年2月の別火氏と長谷氏の紛争では、多賀久幸が横道久宗と連絡をとって対処しており、国久はかかわってはいない。前に述べた敬久だけでなく、誠久の嫡子孫四郎までも前面に出てくるようになり、国久は引退し、西部の支配も晴久側近が担うようにかわったのであろう。
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