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2008年12月

2008年12月31日 (水)

岸本左一郎(7)

 大田市仁摩町天河内の満行寺前の丘に今も残る左一郎の碑に刻まれた本因坊秀和の追悼文を以下に示す。大森に住み中国地方各地に指導に行った。囲碁史の本などによく書かれている、本因坊家の塾頭であったが、病気のため帰郷したという記述は正しくはない。3度目の上京で嘉永5年から7年まで滞在し、途中京都に立ち寄ってから大森に帰っており、当初の予定通りの行動であった。毎年1局ずつ秀策と黒番で対局し、3連勝直前で見落としで敗れたことはよく知られているが、地方にあって囲碁の普及に力を入れるようになって、左一郎の棋力は上昇し、秀和、秀策との差を詰めている。大器晩成のタイプでもあったろう。

岸本左一郎者石見国大森人也。天性善棋。父母知其不凡蚤擇其師迺來于江都、師事吾丈和先生。時季十七。先生亦器之教導不懈故忽象山奇功。数施王粲之才智、十八歳而進于四段、且為人生孝不欲長在他国故、此年帰国、訪其父母焉。嘉永六癸丑再來。子東武同年九月余賞其業不怠、段加一級。然而子在東都也、盛奮 威雖老練高手不得以不摧心膽矣嘉永七申寅七月更賞其功授六段。安政五龍集戊午七月卒于其国年齒未満初老嗚呼天歟命歟。都鄙聞之莫敢不惜也間者彼門弟子來請贈段余以為儻僅加一階、則位在上手乃棊門将位豈容易許之耶。雖然使彼今猶在、必己得其位、諺曰死孔明走生仲達。有餘力者殆皆如斯。因贈以七段庶幾霊魂其欣之
 萬延元年庚申七月六日    本因坊秀和 印
(書き下し) 岸本左一郎は石見国、大森の人なり。天性棋を善くす、父母其の不凡を知り、其の師を蚤擇す。迺ち江都に来たり、吾が丈和先生に師事す。時に季十七、先生亦器之教導懈らざる故に、忽ち象山の奇功を遂る。數施王粲之才智、十八歳にして四段に進也。且つ其の人なり生まれつき孝にして長く他国に在を父母を訪ねる。焉に嘉永六年癸丑再び来る。子、東武同年九月、余、其の業怠らざるを賞し、段一級を加う。然して子東都に在るや、盛奮乕威、老練高手と雖、心膽を摧かざるを以て得ざる矣、嘉永七年甲寅七月、更に其の功を賞し六段を授る。安政五年龍集戊午七月其の國亏卆、年齒初老に満たざる。鳴呼天歟、都鄙之を聞き、敢て惜まざる莫と也。間者彼門弟子来り贈段を請う。余儻を為すを以て僅に一階を加う。
則ち位上手に在り、上手乃棊門の将位、豈容易に之を許耶、然りと雖、彼の使今猶在、必ず其の位を得己、諺に日く死せる孔明生くる仲達を走らす。餘力有者、殆ど皆斯くの如し。因りて七段を以て贈す、庶幾くは霊魂其れを欣ばんを。

 萬延元年庚申七月六日 本因坊秀和(印1)(印2)

2008年12月28日 (日)

尼子敬久

 系図によると尼子国久には5人の男子がいた。嫡子誠久、次子豊久、三子敬久、四子又四郎、五子与四郎である。このうち、次子と三子については、天文9年奉加帳には「久豊」、「久尊」と記される。兵部少輔と左衛門大夫に任官した際に改名したのだろう。さらには尼子氏惣領を示す「又四郎」の存在も、国久の娘が晴久と結婚したことを抜きにしては理解できない。興久の乱の轍を踏むことのないように、国久とその子たちに配慮したのだろう。
 次子の豊久は天文15年に伯耆国の合戦で死亡し、三子敬久は天文20年には左衛門大夫に任官していることが確認される。この時点で独立し、自らの館を持ったのだろう。それが現在、新宮後谷にある「新宮党館跡」である。これに対して新宮国久らの館は富田城に近く、防御においてより重要性の高い新宮前谷にあった。天文22年には敬久の館で出雲国滞在中の連歌師宗養を迎えての連歌会も行われた。
 前に述べたように、天文20年段階では国久は引退しつつあり、新宮党は誠久と敬久の二頭政治の状況になっていた。敬久の子については系図は記さない。そのためか、誠久の下にその嫡子孫四郎氏久が位置したのに対し、敬久の下には氏久の弟甚四郎が位置していた。このような状況に対して「尼子家破次第」が記すように、氏久が不満を抱いたのであろうか(軍記物はこれを久幸の子次郎四郎のことと記す)。

系図と軍記物

 佐々木寅介氏所蔵文書中の尼子氏系図を見て驚いた。興久について、享禄三年に謀反を起こし、翌年には没落、天文3年に自害したとの事実が記されているではないか。なんでながらく軍記物の記述に惑わされ、乱を天文元年などとしてきたのか不思議に思った。
 軍記物では話の流れの関係や、解釈の誤りにより時期を誤ってしまうことはよくある。それに対して系図は、誤りを含む場合や意図的に削られることもあるが、基本的には事実を記そうとする。なぜ軍記物を優先したのであろう。尼子氏関係の軍記物の誤りはいくつかあるが、一番大きいのが新宮党に関する記述である。
 尼子経久の弟とされることの多い久幸についても、弟源四郎の子と記されているではないか。これなら奉加帳で、久幸が国久とその嫡子誠久の次に記されているのも納得できる。系図のように源四郎の子なら、久幸自身も任官する前は源四郎であり、久幸の嫡子も同様だろう。
 ところが久幸の嫡子は奉加帳では「次郎四郎詮幸」である。この点については尼子氏の過去帳が教えてくれる。享禄3年に「尼子下野守殿子息」が死亡している。「源春禅定門」との名は、若くして亡くなったことを示す。この子息が嫡子源四郎であろう。詮幸も晴久が「三郎四郎」であったのと同様の理由で「次郎四郎」であった。軍記物は久幸を経久の弟とし、当然、高齢であるとして、晴久の出兵計画に異議を唱えさせた。

尼子勝久と新宮党討滅

 永禄12年、山中鹿介、立原久綱らの尼子旧臣が新宮党討滅を免れ京都東福寺の僧となっていた遺児を擁して、尼子氏再興へ向けたの行動を開始した。遺児は孫四郎勝久と名乗った。「孫四郎」とは新宮党惣領の名である。その花押も、尼子氏関係者の中では尼子国久に最も似ている。なぜ「又四郎」ではないのだろうか。
 新宮党討滅事件の関係者は立原氏を除けば今回の再興には参加していない。佐世氏しかし、大西氏しかり、本田氏しかりである。立原氏の場合も、久綱の兄幸隆が討滅に深い関わりをもったであろう。その幸隆ですら、討滅の翌年6月には、薗村百姓に対して「近年紀州様」より仰せ付けられたように、日御崎社領と妙見社領の大堺を守り、税は日御崎社へ納めるように命じている。これに先立ち、晴久も同年2月に薗村百貫の地を日御崎社に寄進している。
 毛利氏が井上氏を粛正した際にその罪状を数え上げたのとは対照的であり、井上氏の粛正と新宮党討滅を同列に論じることはできない。薗村は国久領であったことがわかるが、それを直轄領にせず、あえて日御崎社に寄進していることと、国久を「紀州様」と読んでいることは、意図して新宮党討滅を行ったとの見解と矛盾していると思われないだろうか。

2008年12月21日 (日)

尼子晴久(15)

 以上、晴久に関連して述べてきた。これ以外に、弘治2年の石見銀山奪取などもあるが、別の箇所で述べたので省略する。形式的にみれば、尼子政権は当主と富田衆が中心となり、純化したといえるかもしれないが、その他の国人との矛盾はかえって大きくなったであろう。所領の回復を目指す出雲州衆にとっては、現在苦境にある若者が戦争を期待するのと同様、尼子氏の滅亡が事態の打開をもたらす最も望ましいこととなるのである。毛利氏の出雲国攻めが始まると、出雲州衆だけでなく、西部の富田衆からも毛利氏方になるものが続出した。この点こそが、晴久とその政権の評価を行う根拠となろう。
  「出雲尼子史料集」刊行後、出雲国の富田衆松浦氏の関係史料が東大史料編纂所にあることが知られた。その史料はいままで残った史料だけで尼子氏を評価することの限界を知らしむるものである。出雲国を掌握するため、近世につながる新たな支配体制を構築しようとしたのは確かで、それを踏まえた分析が必要なのはいうまでもないが、晴久個人から伺われる状況は以上の通りで、決断力と厳しさはあったであろうが、多くの家臣を惹きつける魅力は少なく、敵の多い人物であったろう。「そして誰もいなくなった」というのが私の晴久に対する現段階の評価である。これとは異なる評価を聴けば、また考え直してみたい。
付記:土日にブログの更新をしてきたが、しばらく休むことになるかも、ならないかもしれません。とりあえずアクセスは1000を越えましたが、半分ぐらいは自分で作成・確認したものでしょうか。毎日1~2人の外部からのアクセスはあるようなので、更新も必要か。

尼子晴久(14)

 天文20年に晴久が美作国へ出兵し、本願寺と連絡を取ったのは前に述べた通りである。本願寺側は10月には、以下の晴久の家臣に返書を送った。
 尼子式部少輔(取次)、子孫四郎、大河原孫三郎(妻は国久娘)、屋葺七郎兵衛、大石 三郎衛門、立原二郎衛門、深田四郎左衛門(式部少輔取次)、宇山弥次郎
次いで11月には以下の通りであった。
 尼子左衛門大夫、同甚四郎、亀井孫五郎、森脇七郎衛門(久貞、奉行)
ともに新宮党の誠久と敬久をトップとし、誠久の息子孫四郎と甚四郎が続き、その後に富田衆(屋葺・大石・立原・深田・宇山・亀井・森脇氏)が記されている。大河原氏のみは美作国の国人であるが、国久の聟であった。この史料は、美作出兵に参加しなかった有力富田衆を欠くとはいえ、天文20年当時の尼子氏家臣団の状況を伺うことができる。すなわち、一族衆としての新宮党があり、それに有力富田衆が続いていた。
 また、晴久袖判で、尼子誠久と牛尾幸清が連署した三浦才五郎の相続と所領を安堵した文書(大河原氏宛)が残されているが、この場合も署名順から誠久が牛尾氏の上位にあることがわかる。その一方で、新宮党と富田衆が連署した初めての文書である。一族衆であろうと尼子当主の家臣であることを明確にしたものであろう。問題は年紀を欠くこの文書の発給時期であるが、その花押、署判のあり方からして、晴久の守護補任の年のものであろう。
 これに対して、新宮党討滅後の家臣団はどうなったであろうか。尼子氏滅亡後に作成された史料で、事実とは異なるものあるが、「尼子氏分限帳」がある。そこでは一族衆の上位に富田衆が記されている。確かに晴久子飼いの富田衆が多く文書の署判者として登場するようになったが、問題は当主を補佐する立場の人物が「そして誰もいなくなった」という状況なのである。

尼子晴久(13)

 軍記物で新宮党討滅の中心となったのは本田氏、大西氏、立原氏などであった。これに対して新宮党の家臣の多くは富田衆の庶子家であったという。晴久が亡くなり義久の時代となると、国久の息子誠久と敬久の立場が強化され、富田衆庶子家が惣領家を凌駕する事態もありえたであろう。
 毛利家文書中の「尼子氏破次第」には、美作国支配にあたっていた誠久に替わり、新宮党領は誠久の嫡子孫四郎が継承するはずであったが、誠久自体が多賀氏(孫四郎の母の家)領を得て多くの所領を持ったため、国久は自己の所領を弟の敬久に譲ろうとした。これに不満を持った孫四郎が、多賀氏を通じて毛利氏から国久に働きかけがきていることを密告したとする。そして晴久が国久が毛利氏と通じているかを問うた際に、富田衆の佐世清宗が、そのとおりと答え、晴久は新宮党討滅を決めたと記される。
 米原正義氏の説を受ける形で、長谷川氏は晴久は体制の強化のため、意図して新宮党を討滅し、実際、討滅後は尼子氏による出雲国西部の直接支配が実現し、尼子氏政権が強化されたと評価された。ただ、前に述べたように、出雲国西部でも富田衆による支配はすでに実現しており、新宮党討滅の必要性は小さかった。
 本田氏が晴久に登用された家臣であることはすでに述べた。大西氏は本来は出雲州衆であったが、有力な富田衆であった立原氏の同族であった。天文22年段階では「越中守」となっていた。佐世氏は出雲佐々木氏の一族で、これも本来なら出雲州衆であるはずであるが、天文9年の奉加帳にはみえない。その初見は、連歌師宗養を迎えた天文22年の連歌会の主催者としてである。そして尼子氏発給文書の署判者として登場するのは、新宮党が討滅された翌年の天文24年であった。

尼子晴久(12)

 天文23年11月1日、尼子晴久は富田衆に命じ、一族の新宮党を討滅した。詮久(晴久)が尼子氏を継承する際に、経久は興久の乱の轍を踏まないよう、晴久の妻に国久の娘を迎え、不満を抑えた。そして、両者の間に生まれた義久が後継者となった。晴久には国久の娘と結婚する前に、別の女性を妻としていた。天文5年に岩屋寺二王堂造営の勧進に「尼子民部少輔詮久」とその被官衆とならんで応じている「少輔御局」がそれである。だが、この女性は尼子氏の過去帳によると、天文8年3月に死亡している。その後、国久娘との結婚が実現したのだろうか。
 国久は尼子氏と他氏の婚姻関係の中心にいた。自らは有力な富田衆多胡氏出身の女性と結婚している。天文20年前後に、日御崎社が支配を認められた黒田浦の網に対して、多胡氏領の宗円寺と出雲大社が結んで殺生禁断の命を出させている。多胡辰敬もまた、出雲大社の大工職をめぐる問題が発生した際に、千家国造と連絡を取っている。
 すでに述べたように、国久の娘は宍道氏惣領と結婚し、別の娘は美作国の大河原氏と結婚していた。国久の嫡子誠久は、有力富田衆牛尾幸清とともに、美作国支配にあたっていた。また、誠久の妻は多賀氏の出身であった。
 天文20年の大内義隆の滅亡は大きな影響をもたらした。以前尼子氏と結んでいた石見国の小笠原氏は、陶氏と結んでいたが、厳島の合戦で陶氏が滅亡すると、毛利氏と結ぶ福屋氏と佐波氏による攻撃を受けた。大内氏の家臣であった宍道氏は山口を脱出して毛利氏の家臣となった。多賀氏についても同様であったと思われる。尼子氏にとっても陶氏、毛利氏のいずれをと結ぶのかというのは重大な選択であった。そうした中、宍道氏、多賀氏と関係を持つ国久と誠久のもとへの働きかけがあったことは間違いなかろう。
 それ以外にも、神西氏も本来の惣領は大内氏の家臣となっていた。確かに出雲国西部の所領を富田衆に与えたことは体制の強化につながったであろうが、それが故に、所領を失った一族は所領回復を願い、且つ、本来の惣領と連絡を取ることがあったであろう。前に述べたように、その意味で尼子氏の支配には不安定要因が多かった。

尼子晴久(11)

 天文15年から出雲大社の造営が開始され、19年に遷宮が行われた。次いで大内義隆が陶氏に殺害された直後の天文20年10月に晴久は美作国へ出張するとともに、本願寺と連絡を取っている。さらに天文21年3月には出雲大社に法度を定めるとともに、相伴衆に加えられ、翌4月には将軍義藤御判御教書で因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の6カ国守護に補任されている。大内氏滅亡後の安定勢力として期待されるとともに、尼子氏からの働きかけが功を奏したのだろう。6月には実質的に支配する出雲・隠岐国の2カ国を含む幕府奉行人奉書を与えられた(なぜか美作国を欠く)。
 この守護補任を契機に、晴久は体制の再編成を行う。自らの花押も大型化し、足長となるなど、それまでとは明確に異なったものとなる。それまで尼子氏家臣で受領名を冠するものは限られていたが、晴久の側近に、多賀対馬守、立原備前守、河副美作守、本田豊前守、中井駿河守などのように受領名を冠するものが増加する。新宮党についても、国久が紀伊守に、寵愛を受けた子の敬久が左衛門大夫に任官している。
 国久は大内氏敗退後に塩冶に入り、出雲国西部に対しては晴久の命を施行する文書を出した。天文16年には、佐木浦と宇道浦の問題に対し、国久が宇道地下人へ命令を出したことに対し、晴久から自分の命を施行するのが国久の役割であると異論が出されたこともあった。天文21年に出雲大社の社役をめぐり、北島方の佐草氏と千家方の井田氏の間で紛争が起きたが、その際に国久は晴久の側近多賀久幸と連絡をとって対応している。それが天文23年2月の別火氏と長谷氏の紛争では、多賀久幸が横道久宗と連絡をとって対処しており、国久はかかわってはいない。前に述べた敬久だけでなく、誠久の嫡子孫四郎までも前面に出てくるようになり、国久は引退し、西部の支配も晴久側近が担うようにかわったのであろう。

尼子晴久(10)

 出雲国人を大内氏方とした多賀美作守も、一時は本領を回復したが、大内氏敗退により、美作守は再び山口へ逃れた。庶子家は存続したにしてもさらに所領を削減された可能性が高い。安芸国における尼子方であった吉川氏の立場も微妙であった。武田氏が滅亡したことにより、尼子氏の出兵による大内氏方の切り崩しがなくては、尼子方の維持は困難であった。そのため、天文13年から14年にかけて何度か尼子氏に出兵を要請するが、結局それは実現せず、天文15年に吉川氏の重臣は、興経の引退と元就の子元春の養子受け入れを決めた。
  天文12年以降、晴久の直状と、富田衆が連署した文書が増えてくる。従来もみられたが、数量的に限られ、且つ当主の発給文書は書状形式が多かった。鰐淵寺に対する本堂造営掟や鰐淵寺領書立には亀井国綱、多胡辰敬、立原幸隆の3名が連署している。さらに後者には晴久の袖判が加えられている。御崎検校に宇料浦を新寄進した文書には辰敬、幸隆と国綱に替わって屋葺幸保が連署している。この4氏は経久時代からの有力家臣であった。ただ、4氏の中では屋葺は新しく晴久により登用された可能性がある。その出自は不明で、その花押も独特の形をしている。これ以降、幸保に似た花押の家臣が多数登場してくる。そして天文13年に北島氏の一族富氏への文書には、本田家吉と横道久道が連署している、横道も経久時代からみられるが、屋葺氏と同様である。出自は石見国で、小笠原氏の家臣横道氏の一族ではないか。本田氏は初めての登場で、両者とも屋葺と同様の形の花押を持っている。
 その一端を述べたが、文書の署判者は以前からの富田衆の有力な氏から、晴久に登用された可能性の高い、新たな氏へと交替し、多様化する。これをもって晴久の権限強化との評価も可能かもしれないが、ここでも安定性に欠けるのではないか。経久の時代から毛利氏に降伏するまで、一貫して署判者としてみえるのは立原幸隆のみである。

尼子晴久(9)

 大内氏の出雲攻めは失敗し、尼子氏による戦後処理が行われた。石見国へ入り石見銀山を押領したと軍記物は記すが、その一方で佐波氏の掌握は十分できなかった。天文12年には佐波氏の泉山城を切り取り赤穴氏を入れた。佐波氏惣領隆連も山口へ逃れたが、天文16年には山口から興連が帰り、赤穴氏を通じての佐波郷支配はできなくなった。
 宍道氏惣領(詮慶か)は、大内氏に従い山口に逃れ、一部の所領を没収した上で、宍道氏庶子の支配が認められた。塩冶郷は没収され、尼子国久に与えられた。神西氏惣領も山口へ逃れ、庶子がその支配を認められた。三沢氏は惣領為国が自害させられ、庶子三郎左衛門尉の子が新たな惣領となったが、横田庄は尼子氏とその家臣が支配した。古志氏や本庄氏も無傷であったとは考えられない。そして、千家国造家では現国造が退転するという事態となり、一族の東家から新国造が選ばれた。千家方大工吉川氏が天文14年には退転し、その跡を北島方大工神門氏が継承しているのもその影響であろうか。
  東部で大内氏方となった河津氏は大内氏に同行せず、尼子氏の攻撃を受けて滅ぼされた。河津氏が出雲国人で尼子氏に近い牛尾氏惣領であったのは前に述べたとおりである。晴久は河津氏の跡に有力家臣湯原幸清を入れ、以後、牛尾幸清としてみえる。そうした中、日御崎社は宇竜浦の新寄進を勝ち取るなど、やはり尼子氏方の立場を堅持していた。
 以上のように、大内氏の敗退は出雲国の国人に大きな影響を与え、大内氏方となった国人の所領が尼子氏一族や富田衆に与えられた。これを支配体制の強化とも評価できるかもしれないが、佐波郷の掌握に失敗したように、きわめて脆弱で不安定な体制といえるのではないか。当然所領を削減された一族は、尼子氏に当面従うが、所領回復の強い願いを持つことになる。

尼子晴久(8)

  天文11年7月、大内氏方は赤穴城攻撃を開始した。それに先立ち、出雲国衆から大内氏の家臣となっていた多賀美作守に、味方をするとの申し出があった。中郡13人衆(二宮佐渡覚書)とあるが、出雲国の西部と南部の国人であった。多賀美作守は塩冶興久の乱の時、敗北して国外へ逃れ、その後、大内氏に仕えるようになっていた。軍記物は国外の国人7人を含んで13人とし、出雲国人としては、三沢・三刀屋・本庄(石見だが出雲にも所領あり)・宍道・河津・古志氏をあげている(他の箇所では、広田・桜井氏もあげる)。
 このうち、三沢・宍道・古志氏は興久の乱の関係者である。天文11年7月の大内氏重臣相良氏の書状をみると、神西氏、佐波氏、さらには尼子氏にも大内氏方となるものがあった。神西氏も興久の乱に関わった可能性が大きい。佐波氏は誠連の弟興連が「山口牢人中」となるなど、尼子氏の圧迫を受けていた。問題は尼子氏は誰かということである。書状では「宍道・尼子両人」と記されていることからすると、興久の子彦四郎清久の可能性が強い。宍道・塩冶の場合、ともに父が尼子晴久との対立で死亡しているのである。
 反旗を翻した中で異色なのが河津氏である。前述のように、本来牛尾氏惣領であったが、興久の乱後の処置として、多賀氏領の河津郷を与えられていた。軍記物はこの河津(牛尾)民部左衛門尉に、晴久の非情さを語らせるのである。今回の事態には興久の乱で生じた亀裂が背景としてあるが、それを含めて晴久とはどのような人であったのだろう。「陰徳記」には新宮党の国外遠征の場面で、美作国を平定し、因幡国へ討ち入ろうとする国久に対して、家臣が失敗しても成功しても晴久の思し召しはよくないと諫めた場面が描かれる。これは後の新宮党討滅の布石としての記述であろうが、河津の言葉と併せて晴久の専制的性格を物語るものである。

尼子晴久(7)

 佐波氏の場合は毛利氏が大内氏方に転じた際に同調したようで、大永6年に尼子氏が安芸へ軍事行動を起こした際には、佐波誠連が「没落」に追い込まれている。そして享禄4年には、没落していた際に尼子氏が赤穴氏に安堵した佐波郷内の所領を赤穴氏に安堵しており、この時点までには復帰して興久の乱では赤穴氏と同様経久方となったと思われる。 ただ、天文初年には大内義隆が元就に、備後表が元就の支配下に入りつつあることについて、佐波氏とも相談し富田へも使者を送り、尼子氏を刺激しないことが肝要であると述べている。天文5年に尼子氏が安芸へ軍事行動した前後に佐波氏も攻撃対象となったようで、惣領誠連を補佐していた興連は姿を消して「山口牢人中」となり、惣領も子の隆連に交替している。出雲国内にも所領を持ち、清貞以来友好関係を維持していた佐波氏の場合、境界領主として尼子氏と大内氏方の間で揺れ動いていた。
  話が「晴久」からそれたが、吉田攻めまでに、尼子氏も準備を行っていた。同盟関係にある安芸武田氏、吉川氏、石見小笠原氏との連絡を密にするため、富田衆の湯原幸清と河副久盛を派遣していた。そして吉田攻めと平行して、石見西部の安濃郡・邇摩郡への攻撃を展開し、一時は石見銀山も掌握しかかった。ところが、吉田攻めは失敗し、事態は一変した。
 佐波氏の場合、吉田攻めには惣領隆連が参加している。父誠連の死を受けて相続したのであろうが、吉田攻めの際には富田への人質として家臣森氏を送っていた。しかし尼子氏の敗北後は大内氏方に転ずる。

尼子晴久(6)

 尼子氏と大内氏の勢力圏の境界はその時々で変動するが、大きな意味を持ったのが中国地方第一の規模を持つ江川である。大内氏は石見国の邇摩郡の分郡支配をしたとされるが、邇摩郡は江川東岸であり、ここを確保することが石見国支配において重要な意味を持った。後に石見銀山が発見されるとその重要性はさらに高まった。この江川中流域でその両岸を支配したのは小笠原氏と佐波氏であった。
 尼子氏にとっても同様に石見・備後・安芸へ展開するためには、江川西岸の拠点確保が必要であった。大永3年に確保した波子浦を日御崎社に寄進したのも、拠点作りの一環であった。小笠原氏については、大永年間に伯耆国の合戦に参加しており、この頃までに尼子氏との間に同盟関係が生まれた。一方、佐波氏は幕府奉公衆でもあり一筋縄ではいかない面があった。
 佐波秀連の時期は吉川氏を介して尼子経久と佐波氏の間には同盟関係があり、この両者が中心となって段銭徴集を幕府から迫られていた守護京極政経と対立したこともあった。それが経久の守護代解任により一旦同盟関係はリセットされた。西部の塩冶氏を掌握し、永正11年には三沢氏を攻撃して一定の成果を得た経久は、次いで、佐波氏に対して「前代之儀」を申し入れた。前に述べた永正2年の塩冶攻撃は幕府・守護の権威を背景とするものであった。
 これに対して佐波氏惣領誠連は、名代として赤穴郡連を派遣し、仁多郡馬来で郡連と経久の対面が実現した。郡連は自分は誠連の名代なので、申し入れは誠連にも行ってくれと主張し、両者のかけひきがあったが、結果的には平浜八幡庄にいる京極治部少輔の息女を御屋形として、郡連が出頭して関係が確認された。そして伯耆国西尾陣へ佐波・赤穴両氏は参陣している。ただ両者の理解には差があり、「被官次」と考える尼子氏に対して、佐波氏は「国次」と理解していた。ともあれ永正15年には尼子経久が赤穴氏の所領相続を安堵している。

尼子晴久(5)

 興久方の多かった出雲国西部でも日御崎社は経久方であった。それは天文2年に経久と詮久が伯耆国犬田村を日御崎社に寄進していることからわかる。これを契機に尼子氏と日御崎社の関係は強化された。
 天文5年、尼子氏は安芸国において尼子方から大内方へ転ずるものが多くなった事態を打開するため、大規模な出兵を行い、毛利氏に打撃を与えて失地回復を図った。また興久が一時逃れていた備後国山内氏も屈服させ、一族の多賀山隆通(聟法師)にこれを継承させた。一方、当時は大内氏方であった安芸国の吉川氏を尼子氏方に転じさせることにも成功した。吉川氏は経久の妻の実家であった。
 その後、天文6年から9年にかけて、尼子氏は詮久と国久が東部の備前・播磨へ兵を展開した。その際、本願寺と連絡を取っているが、そこには尼子一族と並んで、富田衆の重臣が登場する。富田衆の筆頭は河本久信で、それに続いて鳥屋・亀井・湯原・大石・立原氏などが登場する。尼子氏一族でも国久・興久・経久弟の子である久幸のそれぞれの子も登場してくる。
 尼子の主力が東部に展開するのをみて、大内方も反撃のため安芸国へ出兵することとなった。これを受けて、詮久は兵を西部に転じ、安芸国における大内氏方の中心である毛利氏の吉田・郡山城を攻撃することとした。以上のように尼子氏は対抗策として出兵したというのが最近の広島側の見解であるが、その根拠は今ひとつ明確ではないと思う。

尼子晴久(4)

  興久の乱の帰趨を決めたのは宍道湖北岸の佐陀城と末次城の攻防戦であった。秋鹿・島根郡にも興久方となるものがあったことを示している。両郡は古くから出雲国西部との関係が深く、島根郡長田郷は多賀氏惣領の所領であった。また、後に毛利元就が富田城攻めをおこなった際の本陣も佐陀城に隣接する荒隈城であった。
 ともあれ乱は鎮圧され、興久方となった人々の所領は没収されたり削減されたりして、尼子氏一族や富田衆に与えられた。多賀氏領長田郷は後に富田衆宇山氏も支配権を主張しており、その一部は宇山氏など富田衆にも配分されたと思われる。興久の本拠地塩冶郷については、一部が没収され、一部は興久の子で経久の孫となる彦四郎清久が継承を認められた。宍道郷についても同様で、一部は没収され、一部はこれまた経慶の二人の子(経久の曾孫)が継承を認められた。神西氏惣領はその座を庶子家である三郎左衛門に譲らざるを得なかった。古志氏も庶子家である六郎左衛門尉が富田衆に組み込まれた。
 以上のように「雨降って地固まる」ように結果として尼子氏の支配は強まった。ただ問題は、なぜにこれだけの国人が離反したのかということである。宍道氏惣領経慶は経久の孫であり、且つ尼子国久の娘との間に子をなしていたにもかかわらず。軍記物では、宍道経慶は従兄弟にあたる晴久を殺害しようとして失敗して死亡したと記される。

尼子晴久(3)

 興久の乱の実態については長谷川氏の研究により解明が進んだ。それによると守護京極氏の下では守護代尼子氏のライバルであった多賀氏惣領も興久方についた。この直前に多賀氏惣領の娘が尼子国久の嫡子誠久に嫁いでいたにもかかわらず、多賀氏は興久を支持したのである。そして興久が敗北したことにより、多賀氏惣領の所領は没収され、西南部の多禰郷は、娘婿となった誠久に与えられた。多賀氏は北部の長田(河津)郷も支配しており、それは大原郡の国人牛尾氏惣領に与えられたに違いない。軍記物で牛尾氏惣領「牛尾民部左衛門」を「河津民部左衛門」と記すのはそのためである。
 興久方として、出雲国南部の三沢氏や鰐淵寺関係者がいたことも長谷川氏により明らかにされた。三沢氏は尼子氏の攻撃を受け、所領の一部を尼子氏に奪われ、惣領為忠は引退を余儀なくされた。鰐淵寺も寺領の一部が尼子氏により没収された。興久は謀反を起こすとすぐに、出雲大社の柱立を行っており、両国造も微妙な立場に置かれた。そして、神西氏惣領、宍道氏惣領も興久方であったことは確実である。また古くから塩冶氏・国造家と関係のあった古志氏も可能性が高い。

尼子晴久(2)

 尼子晴久は永正11年に生まれた。その父政久はその前年に阿用の桜井氏を攻撃中に戦死しており、晴久の誕生は尼子氏関係者がそれぞれの想いから固唾をのんで見守っていたことであったろう。生まれたのは男子であった。ホットした人と残念がった人がいたことは、昨今の皇位継承問題と一緒である。政久にはそれ以前に生まれた男子があったが、早くに亡くなっている。大永6年(1526)に経久は雲樹寺に田地を寄進しているが、その目的は政久と「玉英源玖童子」の菩提を弔うためであった。尼子氏は清貞・経久・政久の3人がともに「又四郎」であったのに、政久の子詮久(晴久)が「三郎四郎」であるのは、兄がいたためである。
 政久には4才下の国久と9才下の興久という二人の同母弟がいた。国久は東部の吉田氏を継承し、興久は東部の塩冶氏を継承した。これは毛利元就が子の元春と隆景に吉川氏と小早川氏を継承させたヒントになったともいわれる。一般的には兄国久の方が上と思われるかもしれないが、尼子氏のライバル塩冶氏を継承していることからか、永正末年頃、経久からの音信に答えた「名乗」の返信では、「尼子伊予殿」に続いて、「塩冶彦四郎」、「尼子孫四郎」の順で記しており、弟興久が上位に位置していた。何が言いたいかといえば、晴久の誕生にもっとも落胆したのは興久であったということである。これを抜きにしては後の塩冶興久の乱を語ることはできない。
 興久の乱は享禄3年に、亀井秀綱を派遣して尼子氏による3回目の出雲大社神前での大読経が行われた直後に起こった。前2回に準ずれば、再び尼子氏による国人を動員しての国外遠征が行われようとしたその時に、出雲国西部と南部の国人が興久を擁立して、尼子氏に反旗を翻したのである。その目的は政権の奪取にあったであろう。そして、その翌年から史料の上で「三郎様」や「三郎四郎」が前面に登場してくる。これが詮久である。軍記物で、興久に亀井秀綱や詮久に対する不満を語らせていることは象徴的である。

2008年12月20日 (土)

尼子晴久(1)

  「尼子氏の全盛期はいつか?」と問われると、答えに窮してしまう。近年では長谷川氏「戦国大名尼子氏の研究」により、晴久の再評価がなされており、Wikipediaの記述にもそれは反映されている。体制としては当然成熟・進化しているとは思うが、自分自身としては今ひとつ納得がいかないのである。長谷川氏の研究成果にも、どの研究にも多少なりともあるが、仮説が先行してその検証が十分なされていないうらみがある。「うらみ」とは石井先生がよく使われた表現である。晴久という人を考えると、正直答えに窮する。
 「陰徳記」では、戦国大名を囲碁の棋力になぞらえて評価する場面があったかと思う。そこでは元就と晴久の力量差は両者の置かれた状況の違い=ハンデ以上にあり、結局は元就が勝利するとの予測が述べられていた。晴久の絶対的力量がどうであれ、結局は相手=元就との相対的力量の差で結果は決まる。敗北したからといって力量が低かったわけではない。
 はっきりと言えるのは両者の寿命の違いである。享禄4年には兄弟の契約を結んだ両者であったが、晴久が永禄3年(1560)に死亡したのに対し、元就は元亀元年(1570)まで生きた。この10年の違いが両者の実績を分けたのも確かだろう。尼子経久の実績も彼が84才と長寿であったことを抜きにしては語れない。ただそれにしても、「陰徳記」での評価は元就、義興、経久、晴久の順番であった。

2008年12月19日 (金)

岸本左一郎(6)

 岸本左一郎は、囲碁の普及に本格的に取り組んだ最初の人であった。その大森の家は「囲碁の学校」の様相を示していた。それを示す資料の一つが「座隠清戯」(日本棋院蔵)である。10年前に日本棋院に行き、資料室をみせてもらった。現在は「囲碁殿堂資料館」として大学の機関がかかわり管理されているが、当時は「ヒカルの碁」の場面でもわかるように、担当者に許可を得れば自由にみることができた。
 訪問のきっかけは、遊技史研究者増川宏一氏の著書に幕末の出雲国西部の囲碁番付のことが述べられていたのをみたことである。囲碁だけでなく、文化・学問の地域的結びつきを知る上で貴重な資料であると思い、氏に問い合わせたところ、以前、日本棋院の資料室でみたと思うとのことであった。残念ながら、それに該当する資料は発見できなかったが、いくつか関係する資料をみることができた。
 「座隠清戯」は「座隠談叢」の巻末のリストにもあるが、2冊からなり、石川勝強と石川健助が岸本に受けた指導碁をそれぞれ90局と55局掲載したもので、岸本のコメントも加えられている。両石川がどこの人物かは記されていないが、時期は嘉永3から4年にかけてのものである。
 これとは別に、邇摩郡福光下村庄屋福富氏の文書(国立歴博蔵)には、嘉永3年頃、囲碁の修行にやってきた播磨国の盤喜と但馬国の良蔵のことが記した手紙が残されている。両者は前年の冬(旧暦では10月~)にやってきたが、春暖かくなってきたこともあり帰国することになり、関係者で送別の碁会の開催を案内する内容である。岸本の名はみえないが、当然、岸本に入門したものと考えられる。岸本が門人の養成を行い、資なきものには経済的援助を行ったことはその石碑にも記されている。

2008年12月13日 (土)

人はなぜ歴史を残すのか(2)

  永享11年2月には赤穴弘行の子幸重がほうし丸に所領を譲っているが、その中には正連分が含まれている。さらに文明3年、弘行の孫幸清からほうし丸への譲状は赤穴庄全体(=清連分を含む)のものである。置文と関連史料をみると、応永30年頃、高橋氏と佐波氏の合戦があり、正連流=千束氏は佐波氏庶子明都賀氏とともに高橋氏方となった。そして両者の間で和睦が行われた際に、千束氏や明都賀氏は所領を没収された。
明都賀氏には佐波氏惣領元連の弟が入った。千束氏領は3分の2が佐波氏方となった赤穴氏に与えられ、3分の1は千束氏に残されるはずであったが、約束は実行されなかった。
 次いで、文安5年には、佐波氏惣領が赤穴八幡宮領を押領したとして幕府から討伐され、所領を没収された。その際に、明都賀氏や井本氏はいち早く降伏したのに対し、赤穴氏は最後まで佐波氏方であった。そしてその後まもなく事件の張本人が明都賀・井本氏であることがわかり、惣領が復活すると、逆に明都賀・井本両氏が享徳元年11月に追討された。こうして、赤穴庄は赤穴氏=弘行流が支配するようになったが、置文でライバルとして意識されているのは清連流=井本に外ならない。
 永正2年7月に赤穴郡連は置文を作成したが、その際、自らの家の正統性を主張するために、祖弘行の父として常連嫡子顕連なる人物を作りだし、当初からこの家が郡連流の惣領であったことを主張するとともに、井本氏の行動を批判した。

 

福屋氏の謎(2)

  良圓は誰から津淵村を継承したのだろうか。母からという可能性とともに、父兼仲の母=祖母=福屋兼廣の妻という可能性もある。母である場合も兄弟である福光兼継(周布氏出身)と違う場合もある。いずれにしても非益田氏系御神本氏からのものであろう。
 福屋氏における庶子の分出もよく分からない。兼廣の嫡子兼仲以外に2人の男子が系図に記される場合があるが、藤次、藤五のみで名前も所領名も分からない。兼仲の子についても、嫡子兼親以外は、福光、横道、井田と本来福屋氏領でなかった大家庄内福光と大家西郷内の地名を名乗っている。娘良圓がわずかに福屋くらみつ名内岩地村を譲られているのみである。福屋氏として文書でその名が確認されるのは、元徳2年の福屋孫太郎で、系図でいうところの「兼行」に比定できる。
 そうした中で、正和2年11月の六波羅御教書が注目される。伊甘郷地頭阿忍代善覚が、福屋郷地頭が新金口を掘ったことにより、下流部の伊甘郷内の田地が流出したことを訴えている。福屋郷の地頭名を欠いているが、婚姻関係をめぐらす同族間でのこのような事態=幕府に訴えざるをえないということは考えにくい。また、南北朝動乱において福屋氏惣領は反幕府方であったが、動乱初期には福屋氏の姿はみえない。同じく反幕府方であった周布氏の場合は、所領安堵を目指して上洛おり、福屋氏の場合も所領問題で上洛していた可能性が大きい。福屋氏が合戦に姿を現すのは、建武5年3月に安芸国攻撃に参加した「福屋弥太郎左衛門尉」で、関連史料により、福屋孫太郎兼行の嫡子兼景であることが確認できる。兼景は南朝方となることで左衛門尉に任官したのであろう。
 以上の状況から、福屋氏も益田氏と同様、福屋郷の中心部分を没収されたのではないか。阿忍から訴えられた福屋郷地頭は東国御家人であり、南北朝動乱の開始の時点で、福屋兼行・兼景父子は所領回復のため上洛中で、その後南朝方となることで福屋郷中心部分を回復するとともに、任官したのではないか。一方、室町幕府は福屋郷(地頭職)を京都本國寺の造営料所に寄進した。

福屋氏の謎(1)

 御神本氏一族は益田・三隅・福屋氏の三氏に分かれる。益田氏が中世社会を生き延び文書を残したのに対し、三隅・福屋両氏は戦国末期に惣領家が滅亡し、文書は散逸してしまった。それでも戦国期の状況については、益田氏、周布氏の文書によりある程度知ることができる。御神本氏の本領というべき伊甘郷をめぐり15世紀後半には益田氏と三隅氏が激しく対立したが、16世紀中頃には福屋氏の支配するところとなった。
 それに対して鎌倉期の状況はほとんど史料がない。わずかに庶子である福光氏の史料数点が残るだけである。ところがこの福光氏は、福屋兼仲の子とされる一方で、周布氏の一族として記す(両方に記す)ものもある。苗字の地である福光郷(村)は本来周布氏領であり、福光氏が福屋氏の一族であるならば、福屋氏と周布氏出身の女性の婚姻を考えなければならない。前にも述べたが、御神本氏間の婚姻は活発に行われている。御神本氏はその名に「兼」を付けるのがアイデンティティであるが、すべてが益田氏から別れたわけではないことにも注意が必要で、周布氏は益田氏からではなく、母方(非益田氏系御神本氏)から福光郷を継承している。
 福光郷は邇摩郡の大家庄内の一所領である。大家西郷の惣領井尻氏はやはり「兼」をその名に付けるが、非益田氏系御神本氏である。西郷内津淵村は福屋兼仲の娘で永安兼祐と結婚した良圓が継承した所領である可能性が高い。良圓はその一方で福屋くらみつ名内岩地村を父福屋兼仲から継承している。

民衆の歴史

 歴史を考える際に、何を明らかにすると問われれば、権力の構造や民衆の存在形態などという答えが思い浮かぶ。両方とも大切なことはいうまでもないが、そのためにどのような史料が必要で、それを分析する手法は何かを考える必要がある。前者については、単に「権力」という言葉を使用しているにすぎない論文もある。「昭和史論争」でも指摘されたが、人間が不在な中で論じているケースもみられる。
 「民衆」というものも難しい。中世史の場合、京都・奈良・鎌倉など一部の地域を除けば、史料として残るのは荘園の名主層までであろう。彼らの分析で果たして「民衆」を代表させられるだろうか。以前述べた民衆の差別意識を考えた際に、そのような感想を持った。すぐれた成果があれば、是非勉強したいところである。ただ、史料を文献資料から周辺資料にまで拡大すれば研究は可能であると思う。
 これが近世後期になると、実際に作成された史料と残された史料はともに飛躍的に増大する。とりわけ、村の庄屋をつとめた家には、①藩からの文書や②村から藩へ提出した文書、さらには、忘備のために残された③日記などがあり、それらを活用すれば、民衆の姿をある程度描くことが可能である。近代になると、史料の量はさらに増えるが、地域社会に庄屋の役割を果たす家が消滅したため、③のような史料(単なる日記ではない)はみることができない。筆者の不勉強を顧みず言えば、史料としてもっとも興味深いのは、現時点では近世後期の史料である。これなら民衆の歴史を描くことはできそうだ。

人はなぜ歴史を残すのか(1)

 本ブログでは歴史の実像と虚像を具体的に述べている。それは表題とも通ずるもので、わざわざ(態々)歴史を残すのは、事実を後世に伝えるためである。一方、残したくない事実もあるわけで、それを除いたり、つじつまがあうように改変する。真実と改変された部分の両方を明らかにしなければならない。
  「赤穴郡連置文」は、『中世政治思想』(岩波思想大系)で石井進氏が採り上げられたことでよく知られるようになった。出雲国の国人赤穴氏が自らの家の歴史を書き記したものである。ただ、置文の性格については、石井氏の分析を以てしても十分解明されたとは言い難い。
 置文では、戦国期の赤穴氏は赤穴常連の嫡子顕連の子孫であるとしている。中川四郎氏所蔵文書をみると、常連の譲状は弘行・清連・正連宛の3通が残っている。置文によれば、弘行は顕連の子で、清連・正連は顕連の弟となる。ところが、譲状をみても、弘行が常連の孫であるとの記載はなく、置文がなければ、誰でもこの3人は常連の子と考えるだろう。また、置文によれば,嫡子顕連の子弘行が惣領ということになるが、譲状を見る限りは3者の間に惣領-庶子の関係は記されていない。さらに、石井氏を含め従来の研究では、置文にみえる常連次男「井本」を正連のこととするが、史料をみると、井本とは清連に外ならない。
 また、常連領であった赤穴庄と佐波郷内赤穴氏分は、いずれも3人に分割して譲られたと解釈しているが、佐波郷内は弘行と清連=井本の2人に譲られている。さきに3人は平等であると記したが、強いて云えば、赤穴庄内は弘行の家が、一方佐波郷内は井本氏が惣領で、この2家が赤穴庄にのみ所領を有する正連系=千束氏に対し優位に立っている。

2008年12月 8日 (月)

残ってる史料から考えるしかない(3)

 文和元年一一月、幕府は石見国凶徒退治のため、荒川詮頼を守護として派遣した。そして翌年二月には荒川からの注進を受けて将軍義詮の感状が出されルとともに、吉見範直が内田氏に黒谷城での忠節を注進する旨を伝えている。幕府方の攻勢が続いている。それに対する直冬の反撃が正平九(文和三)年に、南朝から義詮誅伐の綸旨を受けて、石見国の兵を率いての上洛であった。同年六月に吉川経兼は、五月の温泉津での軍忠を報告し、仁科盛宗から承判を受けている。そして、九月には経兼に対し、直冬は石見国西方凶徒退治のため守護が下向することを伝えている。西部でも幕府方に呼応する勢力があったことがわかる。正平一〇年正月、直冬軍は山名氏と呼応する形で京都へ入り、一時占領したが、三月には敗退している。
 この敗退は石見国の直冬方の勢力に影響を与えた。同年九月には仁科盛宗が三隅郷への到着と近日中の「譽田」への発向を内田氏に伝え、翌一〇月には高津城での軍忠に対し直冬からの感状が出されている。この「譽田」は「益田」のことと思われる。また、正平八年以降は、石見国人では三隅氏が中心的役割を果たしており、正平一〇年時点で益田氏惣領が幕府方に転じ、それに対して攻撃がなされた可能性が大きい。
 正平一四年五月に「益田越中守」が石見国本領の守護使不入を安堵されている。これが益田兼見であり、この時点までに新たな益田氏惣領となっていたのだろう。同年二月には周布氏に対して、幕府方が軍勢催促をしたのに対し、直冬が兵粮料所を与えて引き止めを図るなど、微妙な情勢がみられた。翌一五年六月には「周布因幡守」が直冬から周布郷の守護使入部の停止を新たに認められている(了)。

2008年12月 7日 (日)

残ってる史料から考えるしかない(2)

   観応3年5月に南朝方による京都占領は幕府による奪回という形で失敗した。石見国の三隅兼連も石見宮を伴い上洛していたが、石見宮は戦死した。反幕府方としては体制の建て直しが、幕府方はこの機に乗じた攻勢が求められていた。
 六月二〇日に足利直冬は、俣賀氏の惣領内田氏に対し、厚東氏の誅伐を命じたのに発向しないのはなぜか、至急発向せよとの命を出している。一方、内田氏に対しては、八月一二日付で将軍義詮から、吉見範直からの注進を受けて感状が出されている。
 一方、反幕府方の大将である頼直も吉見氏の一族であろうか。そしてそれに従ったのは、三隅次郎入道兼連、益田助二郎、高津余次長幸である。益田助二郎は益田氏惣領兼忠の兄弟兼利であり、反幕府方の有力者が揃って幕府方の拠点を攻撃したことになる。また、益田氏系図では、兼利は父兼世とともに寺戸某に殺害されたことが記され、この後、益田兼見が益田氏惣領となったとされる。

 

残ってる史料から考えるしかない(1)

   歴史史料は意図的に=必要性があったので残ったものが多い。それが、全体の中で占める位置は不明だが、とにかく「残っている史料から考える」しかないのである。問題はその限界をきちんと認識しているかどうかだろう。
 久留島史料編纂所教授を代表とする科研報告書(二〇〇八)で益田金吾家文書の一つとして「観応三年八月日俣賀致冶軍忠状写」が紹介された。幕府方に属する致冶が八月一二日から二一日にかけて、「宮尾御陣」に攻めてきた式部七郎頼直を大将とする反幕府方と戦っている。この軍忠状に承判を加えた人物の花押影の比定は今後の課題とある。宮尾御陣は、石見国西部、長野庄内の吉田郷内であると思われるが、この合戦については、関連史料がなく、これまで知られていなかった。

国御家人と東国御家人との婚姻(2)

 石見国の場合も、守護(佐々木広綱)と知行国主(土御門定通)は京方であったが、定通は消極的な参加で、且、北条義時の娘を妻としていたため、一旦は交替したが、その後も石見国知行国主をつとめている。乱後の東国御家人の割合も3分1以下で、3分の2以上は国御家人が生き残った。
 その中心が益田氏であったが、益田氏や一族の永安氏が東国御家人小笠原氏や吉川氏との間に婚姻関係を結んでいる。また、丸毛氏の場合は小笠原長氏の子を養子に迎え、兼頼と名乗らせ惣領としている。
 ただ、やはり多いのは国御家人間の婚姻である。益田・三隅・福屋・周布の各氏は御神本氏一族に属するが、平安末期までに分かれた非益田氏系御神本氏を含めて婚姻関係を結んでいる。これも御神本氏以外へ所領が流出するのを防ぐためであろうか。
 国御家人は、幕府や東国御家人からの圧迫を受けたようで、益田氏一族は建武2年に益田本郷、小石見郷、津毛別符、丸毛別符を回復している。津毛についても、兼頼の兄弟である経氏(小笠原長氏の子)が地頭となっていた。益田・小石見は得宗関係者が支配していた可能性が高い。

国御家人と東国御家人との婚姻(1)

 西国御家人が東国御家人との婚姻を拒否した事例を述べたのは故網野善彦氏であった。これについて出雲国と石見国についてみてみる。
 出雲国は、鎌倉初期の段階では東国御家人の入部は少なかったが、承久の乱で守護(実名不明)は京方であった。そして知行国主源有雅は後鳥羽の側近で、乱後処刑されている。そのためか、乱後は4分の3が東国御家人領(地頭)となっている。そうした状況では国御家人が生き残るため、東国御家人との婚姻を選択する例は少なからず存在した。ただ、当時の御家人の場合、妻は複数存在したと思われ、西国御家人の娘を妻とした東国御家人は、別の東国御家人の娘との間にも婚姻関係を結び、子をなすのが普通であった。それは網野氏が紹介した東国御家人大中臣氏(大原郡久野郷)の例からわかる。
 国御家人で、出雲国衙在庁官人最有力の朝山氏の場合も、承久の乱後の出雲国守護佐々木義清の養子となって乃木保を支配した光綱と朝山惟綱の娘が結婚し、高定が生まれている。その一方で、光綱は義清の娘との間に泰高(乃白)・景家(乃木)らの子をもうけている。ちなみに乃木希典は泰高の末裔ということになっている。
 例としては国御家人の娘が東国御家人にとつぐというのが多いが、鎌倉中期の国御家人の筆頭朝山昌綱の場合は、東国御家人土屋氏(守護とも婚姻関係)や佐冶氏の娘と婚姻を結び、男子をもうけている。嫡子時綱の母は土屋氏の出身であった。当然、国御家人同士の婚姻の方が一般であったと思われるが、若狭国とは状況が異なっている。

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