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2008年11月

2008年11月29日 (土)

石見銀山市?

 中世後期、とりわけ戦国期の大田・邇摩地域の中心はどこであったろうか。まってましたとばかりに石見銀山と大森ということになろうか。そして港としての温泉津も。ただ、温泉津と銀山との関係は今ひとつ不明確である。以前は、ここから銀が積み出されたとも云われたが、戦国期は仁摩に外国船や博多の船が訪れていた。そして、温泉津から銀を積み出したことは未だそれを確認する資料はない。研究会で石見銀山について発表した人に温泉津の意味を聞いたが、明確な回答はなかった。
 毛利氏のもとでも温泉津は直轄領として重要な位置を占めたが、私見によると、それは経済的というより軍事的意味が大きかったと思われる。石見国はその中央から東部を流れる江川により分断されており、とりわけ江川河口の両岸を掌握することは重要であった。毛利氏にとっても安芸国からみて江川の対岸となる温泉津は、石見銀山支配のために必要不可欠であった。尼子氏もそれは同様で、石見国支配のためには江川東岸にある温泉津だけでなく、江川西岸に位置する江津・都野津などの掌握が必要だったが、安定的確保はできなかった。
 江戸時代の石見国各地の人口の推移を調べたが、後期になると出雲国に隣接する安濃郡の海岸部の人口増がもっとも著しくなる。石見銀山に関わる温泉津とその周辺地帯も増加はしているが著しいものではない。それは政治的中心であった大森、それに隣接する銀山町でも同様である。
 最後になるが、やはり大田・邇摩地域がまとまる場合の名前は石見銀山市がいいと思う。大田は安濃郡の中心で、大田市が成立した際に、安濃郡部分のウェートが高かったために、その名前が市の名前となった。その中で育った人にとっては大田市に愛着があろうが、あくまでも歴史的経過にみられたものである。合併以前の歴史を踏まえると、繰り返しになるが「石見銀山市」がふさわしい(一気にブログ八本を書き、疲れました)。これに固執はしないが、他のご意見があれば、聴いてみたい。

各地域の自立性の高さ

 自分は本来は中世史を専門としたが、現在は近世史についても関心がある。ただ、島根県は近世史の史料の収集と公開が遅れており、研究しようと思う人が史料を活用しにくい状況である。県立図書館の郷土資料室の方々が孤軍奮戦してきたのは高く評価できるが、全体としては文書館がないのが致命的である。これができれば大きな前進が可能であるが、まごまごしていると、「遺跡が消える」とは本の題名であったが、「史料を活用できる人が消える」というより深刻な状況となる。
 歴史の本質からすると、中世史は史料上の制約があり、豊富な史料からさまざま現在を考える材料を提供するという点では近世史がより重要と考えている。近代史にはそれ以上の史料が残っていそうではあるが、文書保管のシステムが変わったことで、近世と比べて解明が難しい問題がある。中世史も古文書だけではなく、地域の歴史的景観を地名学・考古学・民俗学と連携して復元し、それを近世史・近代史と併せて考えることが今後は求められる。
 前置きが長くなったが、中世の大田・邇摩地域の中心地はどこであったろうか。前半では、邇摩郡なら摂関家領である大家庄の中心大家、海岸部なら仁摩というところであろう。安濃郡なら、大田南郷と大田北郷が中心であろうか。大田に隣接する稲用は鎌倉時代の石見国守護の所領でもあり、稲用ないしは大田南郷に守護所があった可能性が大きい。とはいえ、石見部は概して散在的であり、特定の場所が圧倒的というよりは、各地が独立性を持って発達していた。それは近代以前の各地にあてはまり、どこが中心であったかを解明するのは重要だが、一方で各地の自立性が高かったことを無視してはとんでもない虚像をえがくことになる。

道策没後二五〇年記念の会

 以前「囲碁史」で紹介した岩本薫氏の「囲碁を世界に」に収録されている年譜をみると、本因坊道策没後二五〇年を記念した会が松江と温泉津で開かれたことがわかる。道策は日本というより世界の囲碁史を語る際に断トツでトップの人物である。以前は、石見三聖人として柿本人麻呂、雪舟、道策が云われたが、その各分野における位置は人麻呂、雪舟より上であろう。
 松江での開催は県庁所在地であり、出雲部の人々が中心となり、それに対して石見部の人々は温泉津で開いたのであるが、これに対し、道策は仁摩町の出身でありながら、なぜ隣町の温泉津でとの疑問を述べた人があった。仁摩町の人なら当然の疑問かもしれないが、確認しなければならないのは、没後二五〇年の段階(一九五二)では温泉津町も仁摩町も誕生していない。道策の生まれた馬路村の近くで人が集まりやすいとの観点から温泉津温泉が選ばれたことと思われる。
 それと同様に大田市という枠組みも新しいものであり、歴史を踏まえるなら、邇摩郡と安濃郡が一つになって新たな市が誕生したので、市名は「石見銀山市」がふさわしく、外部に対してもアピールできるし、未来の人にとっても理解しやすいと思ったのである。それに対し、同僚はまさに大田市の大田の出身であり、「大田」に大変深い思い入れがあったのであろう。

忘れられた遺跡

 石見銀山の世界遺産登録の動きと平行して、大田市と邇摩郡仁摩町・温泉津町の合併が行われた。合併協議では登録が実現した場合は市名を「石見銀山市」とする予定であったが、人口・面積の両面で多数派である大田市議会から異論が出され、結局は大田市のままとなった。この点について、歴史的経過を踏まえるなら「石見銀山市」とすべきであったとの話をしたら、大田市大田の出身の同僚から、外部の人が何をいうかとの反発を受けとまどったことがあった。
 別に利害関係はなく、中世・近世の歴史を踏まえると、という観点から意見を述べただけであり、それが関係者であるが故に理ではなく、情による批判を受けたじろいだのである。自分の意見の背景には、石見銀山遺跡が戦国期の遺跡として高い価値を持ちながら放置されてきたことが念頭にあった。
 1980年前後に石見銀山遺跡と富田城遺跡という中世の遺跡としては全国レベルのものの保存活用を図るための調査が行われ、策定計画の報告書がまとめられたが、両遺跡ともながらく放置されてきた。おそらく島根県でなければ、両遺跡とも県立以上のレベルの研究所が整備されているであろう。それが、島根であるがゆえに今にいたるまで未整備で、富田城は広瀬町(現安来市)の資料館、石見銀山は民間の資料館によって担われてきた。
 その原因の一つは出雲部中心と出雲部における古代史偏重であろう。富田城遺跡は戦国期における草戸千軒遺跡、越前朝倉氏の一乗谷遺跡と並ぶ集落遺跡である。現在を考えるという歴史の本質からすると古代の遺跡とは性格が全く違う。石見銀山遺跡も戦国期から近世にかけての遺跡で、この場合は、もう一つ、大森が旧邇摩郡に属したのに対し、大田市の中心が旧安濃郡の大田にあったことであろう。大田の人からみると、大森は周縁部でしかなかったのである。1955年前後に大合併が各地で行われたが、その際に、旧邇摩郡は温泉津町と仁摩町、そして旧安濃郡と合併した大田市に分かれたのである。

石見銀山(4)

 えん罪とは無実であるのに有罪とされることである。当然、有罪とした根拠には多くの間違いが含まれていることになる。尼子氏による銀山攻略が弘治二年であることがわかれば、従来の説の問題点がいくつも出てくる。尼子氏が益田氏に送った書状を永禄元年に比定していたが、益田氏は弘治三年四月頃に石見国に進出してきた毛利氏に降伏しており、尼子氏が銀山攻略を伝えて油断なきよう益田氏に連絡することは弘治二年九月以前にしか比定できない。岩国藩主吉川氏の祖元春は弘治二年の石見国攻めではなばなしい戦果をあげて武将としてデビューを飾ったというのが通説であったが、それも尼子氏による銀山掌握が明らかになると、再検討が必要となる。
 「旧記」①はなぜ尼子氏による銀山掌握を永禄四年としたのだろう。また、尼子-毛利氏の合戦を描いた軍記物もこの事件の時期については混乱がみられる。尼子氏側から記した「雲陽軍実記」には弘治二年の尼子晴久による石見国出兵に関係する記事がみられるが、これを永禄三年頃のものとして記している。また、「陰徳記」には弘治二年の吉川元春による石見国進出に対抗して晴久が出兵を計画したが、本人の急病で中止したと記され、晴久を一大事よりも自己一身の命を優先したとして批判している。実際には出兵し勝利した事実からすれば、大変なえん罪であった。
 この時期の史料として二次史料ではあるが、「森脇覚書」がある。江戸初期に毛利氏側の家臣がまとめたもので、信憑性は高い。そこでは、個々の事件の年号を明記せずに、永禄五年の福屋氏滅亡までを記した後に、毛利氏の石見国進出というテーマで関係する事件を記している。その中に尼子氏による銀山掌握=忍原の合戦で毛利氏を破る、もあった。福屋氏は石見国の有力国人で、毛利氏と結んでいたが、永禄四年に尼子氏と結んで反旗を翻し、毛利氏に滅ぼされた。「旧記」や軍記物が共通して尼子氏の銀山掌握の時期を誤ったのは、この「森脇覚書」を参考にして記述したことを示すものである(了)。

石見銀山(3)

 ①にのみみられる記事に、永禄四年に尼子氏が銀山を奪取し、本城氏を山吹城に入れたのに対し、毛利氏が三年間にわたりこれを攻撃したが、攻略できず、最終的には本城氏を利で誘って懐柔し、銀山を掌握したというものがある。毛利氏による銀山掌握は永禄五年であり、「三年間の攻撃」と永禄四年には矛盾がある。
 これに対し、江戸時代に萩藩や岩国藩では毛利元就やその子吉川元春の事績がまとめられたが、そこでは尼子氏による奪回は永禄元年(1558)とされた。これなら三年間の攻撃と矛盾しない。「大日本古文書・毛利家文書」もこの説を踏襲していた。ところが、これもその根拠を確認すると、これがみあたらないのである。そこで、関係史料を再検討した。
 当時の毛利氏や尼子氏の書状には月日はあっても年は記されない。年が比定できる事件を確定し、そこから書状の年号比定をしていくしかない。一週間ほど関係史料とにらめっこをしたが、結局、年号の確定はできないとあきらめかけていたその時、一つの史料の前で目が釘付けとなった。それは、毛利氏のもとで山吹城を守っていた刺賀氏に関するものであった。刺賀氏は尼子氏に降伏し、当主は切腹させられたが、その子は毛利氏のもとへ逃れていた。そこには、刺賀氏に対し長門国の所領を預けたが、帰国した際には返すようにと記されていた。
 弘治三年八月十九日付で毛利氏家臣が連署した書状である。一方山吹城の落城は、尼子氏が益田氏に対して、九月三日付けで書状を送っている。従来はこの書状も永禄元年に比定されていた。刺賀氏はその前年の弘治三年八年段階で、石見国を一時的に退出するという状況にあったことが毛利氏家臣からの書状からわかるが、それこそ、山吹城落城しかありえない。これに他の関連史料を勘案すると、落城は永禄元年ではなく、その二年前の弘治二年(1556)のことになるのである。

石見銀山(2)

 ①のタイプの「旧記」には、戦国期の大内氏と博多の商人神屋氏の開発後、小笠原氏と尼子氏が一時的に銀山を奪取するが、再び大内氏が取り戻すとの記事が記されていた。そして大内氏の滅亡後は尼子氏と毛利氏の争いがあり、結局は毛利氏がこれを掌握したのである。ところが②では小笠原氏の影は薄く、その年号と干支の間にズレがみられた。例えば銀山開発の年を「大永六年丁亥」とするが、丁亥の年は大永七年(一五二七)であり、また尼子氏による奪取が「天文六年子」とするが、子の年は天文九年(一五四〇)である。
 尼子氏の動向をみても、天文六年に銀山を奪取したことに対応する史料はみられない。また①では天文六年の記事に続いて天文八年に大内氏がこれを奪回し、さらに翌九年に小笠原氏が銀山を奪う記事が記される。一方、天文九年といえば、尼子氏が中国地方の武士を動員して安芸国吉田の毛利氏を攻撃した年であるが、②の記事を「子」が正しいとすると、これに符合するのである。また②では大内義隆が陶氏によって殺害された際に、小笠原氏が銀山の大工に切腹を命じたことが記されるが、これなら一次史料と矛盾しない。
 結論をいえば、①は②の年号を正しいものとし、それに小笠原氏の動向を組み込んで後に成立したもので、その内容は信憑性が低いものが含まれている。それに対し、②は年号ではなく干支が正しいとすると一次史料と一致し、全体として信頼できる史料であることがわかった。

石見銀山(1)

 10年ほど前、教育センターに勤務していた時、現大田市内の小学校から石見銀山の教材化で内地留学に来た方があった。地元の出身で、民俗学にも詳しく大変熱心に取り組んでおられた。その作成途中の論文についてスタッフで議論していた際に、石見銀山での生活について、パラダイスのようなとらえ方がなされていたことが気になった。江戸後期に銀山を訪れた人の記録に、銀山の堀工はみな30才未満で亡くなるとの記事があり、そのギャップの大きさに戸惑った。石見銀山について、よくは知らなかったため、とりあえず島根県史に収められている「銀山旧記」(以下「旧記」)を読み始めた。
 「旧記」とはいっても、様々で、①戦国期の銀山開発から江戸初期までを箇条書きに述べたものと②鎌倉末期の大内氏による開発から始めて物語風に記すものを同じ名前で呼ぶのはどうかと思った。②は石見東部の小笠原氏の記録(「小笠原十五代記」)との間に深い関係が伺われた。
 そして、銀山について記述したものが一様に「旧記」は後に成立したもので信頼度が低いとしながら、その記事をそのまま引用していた点に疑問を持った。「旧記」のどの部分は信頼でき、どこが信頼できないかを明らかにすべきではないか、と。そこで、「旧記」の記載内容と戦国期の石見銀山に関する古文書(一次史料)と比較検討する作業を開始した。 

2008年11月27日 (木)

温泉氏

 温泉氏は邇摩郡温泉津を拠点とする国人で、軍記物では出雲国の湯氏と混同されることが多かったが、井上氏が坪内家文書と一畑寺文書の関係文書を発掘し、これと毛利家文書により、石見銀山とも深く関わる温泉氏の実態が明らかにされた。
 ここでは、従来利用されていない邑智郡川本の鋳物師山根氏の関係史料から温泉氏にかかわるものを紹介する。山根氏は邑智郡の国人小笠原氏と結んで勢力を強め、天文19年には真継氏から石見国鋳物師頭領の地位を認められている。
 これまで市山の山根氏の史料が紹介されてきたが、川本の山根常安の子が市山の鋳物師を継承し、分家とした。天文20年、山根常安は、真継氏の安堵を示しながら、各地の国人に郡・港の鋳物師頭領の地位を認めるよう求めている。天文20年4月には、温泉隆長が温泉津における権利を認めている。そしてもう一つは年次を欠くが、同時期に温泉氏の奉行人が邇摩郡内での地位を安堵する文書を山根氏に与えている。
 そして市山山根家文書には天文12年に定永なる人物が山根常安に邇摩郡内の郷村と市町での鋳物商売を安堵しており、これも「永」の字から温泉氏であろう。大内氏の支配が及んだ邇摩郡内で温泉氏が中心的位置を占めていたことが伺われる。

2008年11月26日 (水)

湯氏(2)

 湯郷、拝志郷、佐世郷、大西庄は本来、朝山氏一族が支配していたが、承久の乱の結果、大西庄は東国御家人に与えられ、湯郷、拝志郷、佐世郷は一族内の別の人物が継承を認められたのであろう。
 湯郷、拝志郷、佐世郷が一体のものであるのは、建長元年の出雲大社の遷宮で、この三郷が一緒に相撲を負担していることからも伺われる。そして、文永8年からそう遠くない時点で、湯郷と佐世郷は佐々木泰清の子頼清が支配するようになった。頼清を養子に迎えて立場の強化を図ったのだろう。頼清の跡は嫡子清信が佐世郷を継承し、次子泰信が湯郷を支配した。大原郡は出雲国衙の最有力者朝山氏(勝部宿禰)が本拠としたところである。
 大西二郎女子と同様な例に、津田郷を支配する秋鹿二郎女子がある。秋鹿氏の苗字の地秋鹿郷は東国御家人土屋氏が地頭となっているが、津田郷は一族の女子が継承を認められたのだろう。秋鹿郷は承久の乱以前は、出雲国衙の庁事中原頼辰が郷司であった。中原頼辰は国造孝房の女子を妻とし、その間に生まれた中原孝高は一時出雲大社の神主にもなっている。ただ、承久の乱で打撃を受けたのである。

湯氏-朝山氏一族(1)

 富士名氏は湯氏の庶子であることを述べた。湯氏は出雲国守護佐々木泰清の子頼清を祖とするが、どのようにして湯郷を得たのだろうか。文永8年の湯郷地頭は「大西二郎女子」であり、隣接する拝志郷の地頭でもあった。一方、大西氏の本拠である大西庄の地頭は東国御家人飯沼氏で、佐世郷地頭として湯左衛門四郎がみえる。
 この湯左衛門四郎を頼清とみなす意見が有力であったが、佐々木泰清の子頼清であるならば「信濃七郎」であろう。湯左衛門四郎は湯左衛門尉の四男との意である。「大伴氏系図」には、朝山昌綱の兄弟として湯左衛門清綱がみえ、清綱は昌綱の父元綱の養子となって勝部氏の所帯を継承したとある。湯左衛門四郎は清綱の子であろうが、さらに「大伴氏系図」では清綱の子として「頼清」が記されている。その後、頼清が清綱の養子となり、左衛門四郎に替わって湯氏惣領となったのではないか。
 大西二郎女子は大西庄司の子であろう。大西庄は大原郡の荘園で、その領域は加茂庄をまたぐ形で広がっている。大原郡には120町の大東庄があるが、それに対応する大西庄は22町でしかない。ただこれに加茂庄を加えると、約100町となる。大東庄に対する大西庄として成立するはずが、加茂庄の成立により分断されたのではないか。

2008年11月22日 (土)

声を聴く?

 ブログも40番目となったが、ブログのタイトルは「中世前期出雲大社史の再検討」という論文の副題「文書の声を聴く」による。インターネットで検索すると、「声を聴く」は国文学や歴史学の論文で以前から使われていたことを知った。
 「歴史の研究論文はたくさん発表されているが、本当の意味で論文といえるものは少ない」とは大学時代に石井先生から聞いた言葉である。史料を一定の結論に導くために利用するのではなく、史料に語らせることを心がけているつもりであるが、なかなか「声を聴く」ことは難しい。また、現在のように地域の歴史を考えていると、古代史、中世史、近世史、近代史といった枠組みにとらわれていては作業が成り立たない。不特定多数を対象とするブログということもあって、研究の一つの柱である差別の問題(近世後期から近代への変化)についてはほとんど触れていない。それに関連して、近世や近代の問題に若干言及している程度である。
 いつかまとめられるであろう地域史に備えて、自分でできることはしておかなければならない。それにしても地域史料の保存と公開のシステムがないのが残念である。東大史料編纂所のデータベースのように、一定の配慮のもとに研究しようとするものがそれを使える状況になると、研究者の層も厚くなり、研究は飛躍的に発展するのだが。自分が大学で学んだ中世前期の島根県地域史は実質2人しかいない。また近世以降は史料収集には組織の力が必要である。

都市部と地方(2)

 戦後の税制改革は、戦前の地域間格差拡大を是正するためのものであった。ただ、国・地方の財政難が生じたことにより、問題となっている。どういうあり方がいいかを再検討する時期にきていることは確かである。
 戦後の税の配分が地方重視であったことは確かであるが、実際には都市部と地方の格差はさらに増大している。その原因は何であろうか。一方で、都市の居住環境が良くないのも確かである。戦前は社会資本の整備が都市部偏重で行われたことを述べたが、それは程度の差はあれ、戦後についても言えるのではないか。国税の中での交付税だけでなく、全体がどう使われたを明らかにする必要がある。
 税の配分とともに富の配分との観点も必要ではないか。国道・高速道路・新幹線といった社会資本整備はやはり都市部中心に行われた。一方、サービスを享受したもののうち、企業については、赤字となると法人税を納めなくともよく、享受と負担に大きなアンバランスがあった。それを解消するため外形標準課税なども導入されたが‥‥。
 ここで述べたのは、戦後の改革は戦前に生み出された格差を是正する面があったとのことと、税だけでなく富全体の配分という観点でみる必要があるということである。都市部居住者からみると、税の配分の不均衡が目立つのかもしれないが、実はそれ以上に、生産関連社会資本の整備と生活関連社会資本の整備の不均衡が原因ではないか。企業は整備により多大な恩恵を受けたが、その数分の一に相当する額しか税を納めていないのではないか。きちんと国民全体で議論するためにも、この点についても実証的研究がほしい。都市部で生活環境整備に重点が置かれていたら、今のような状況にはならなかったであろう。ここでも「それしか選択の余地がなかったか」が問題となる。

都市部と地方

 都市部と地方の財政問題の一つに、税の配分問題がある。確かに、戦後のシャウプ税制改革の結果、一旦国税として集められたものが地域間格差是正のため、地方に多く配分されてきた。これが都市部から「自分たちの納めた税金が十分活用されていない」との意見となる。
 20世紀初頭の鉄道敷設状況をみて思ったのだが、戦前の状況はどうだったのだろう。近世の藩の時代は、基本的に地域は独立採算性で運営されていた。それが近代となって政府による統一的税制が整備された。鉄道敷設状況が物語るのは、国税の多くは軍備拡張とともに都市部の社会資本整備に当てられたことである。これに対し、地方は人口は増えているが、都市部とは比べるべくもない。自然増分が社会減分(都市部への流出)によって小さくなったのである。都市部は自然増+社会増で大幅に増えた。このような観点から戦前の税の配分状況を明らかにした研究業績はないのだろうか。
 戦前の日本は、全体としてはそれ以前より豊かになり人口も増えたが、富裕者と貧困者の格差を拡大した社会であった。近世社会にはそれを補正するシステムが存在したが、近代化により失われた。戦前の日本は都市部と地方という面でも格差拡大社会であった。あとは、「それしか選択の余地がなかったのか」ということである。

富士名判官

 富士名判官は後醍醐天皇の隠岐脱出を助けた武士で「太平記」では義綱と記されている。一方、鎌倉・南北朝期の守護制度を研究した佐藤氏と、「中世荘園の様相」を著した網野氏により、富士名判官が建武政権下で若狭国守護に補任されたことと、その一族として布志那判官雅清が若狭国内で活動していることが明らかとされた。
 それを承けて20数年前に富士名判官を再検討する作業を行ったが、結果は雅清こそ後醍醐を助け若狭国守護となった富士名判官その人であることを明らかにした。そして、「義綱」という誤解が生じた原因は、近世における津和野藩主亀井氏系図にあることも述べた。
 亀井氏は尼子経久の重臣であった秀綱の平浜八幡宮への曼荼羅寄進状にみられるように「惟宗」姓であるが、戦国期に出雲佐々木氏の一族湯氏から養子に入り、津和野藩主になったのが茲矩であった。その関係で、亀井氏系図は2種類残されている。正式なものは佐々木氏の出であるとするものだが、それを作成する際に同族の塩冶氏の系図の一部を流用して作成した。その塩冶氏にも南北朝中期から末期に活動した「義綱」がいたのである。塩冶義綱は伯耆国の山名氏と結んだが、明徳の乱で失脚し、その後も復権を図るが、京極氏によって殺害された人物である。
 雅清が一時義綱を名乗ったのではと思う人もあるだろうが、その父は宗清で湯郷内富士名を支配する湯氏の庶子であった。また雅清の死後、その地位を継承したのは公清であり、「義綱」を使用した可能性は限りなく低い。

日本三大船神事

 日本三大稲荷にはローカルルールが存在したが、「日本三大船神事」はローカルルールではないようだ(組み合わせは一つのみ)。ただ、松江と宮島の関係記事には記されているが、もう一つの大阪祭の記事には「日本三大祭」とのみあり、「船神事」は出てこない。大阪と宮島は古代からの古いものであるのに対して、松江は江戸後期に開始されたものである。また、大阪祭は近代以降2度ほど断絶している。
 中学1年の時、竹矢小出身の同級生が何人か松江城山稲荷の「ホーランエンヤ」に参加し、これが12年に一度のものであることを知った。「日本三大船神事」は厳密に言えば中国地方のローカルルールで、これが主張されるのはそう古いものではないのだろう。松江藩において出雲郷(あだかえ)にある芦高神社(現在は風土記時代の阿陀加夜神社)神主の松岡兵庫は重要な人物であり、藩主から厚い信任を得ていた。築城の際に松岡兵庫に拝んでもらい、元々あった荒神などを移動させたのである。また、近世の出雲地方にあった迷信「狐持ち」の狐を体内から追い出す際にも松岡が祈祷を行っていることが知られる(近世中期)。
 以上の点は、「島根県の歴史散歩」で松江市・東出雲町を担当するため調べて知ったことであったが、芦高神社ではなく阿陀加夜神社にすべきとの意見を聞いて驚いた。風土記時代の名称に戻したのは、幕末~維新当時の出雲国内の風潮に従ったものでしかない。そして「ホーランエンヤ」は神社との関係ではなく、あくまでも松岡兵庫と藩主の関係により誕生したものなのである。

歴史は造られ、発見される

 岡山県に行った際に最上稲荷に初めて立ち寄った。「日本三大稲荷」といえば、島根県の津和野の太鼓谷稲荷神社とあと一つは、と聞かれうろおぼえながら「京都の伏見稲荷」と答えた。稲荷とは神社と思っていたら最上稲荷は寺であると知り驚いた。調べてみると、全国的な三大稲荷には最上も太鼓谷も含まれないと知りさらに驚く。各稲荷が自称する「三大稲荷」や「五大稲荷」があるという。また、最上稲荷は明治初年の廃仏毀釈を逃れた岡山県唯一の寺とも記されていた。神仏習合が稲荷本来の姿だったのだろう。
 島根県松江市の神魂神社は最古の大社造の建造物と言われるが、調べても何が根拠なのかは確認できなかった。現地の説明版には南北朝期とあるが、戦国期(天正11年)に全焼したことが確認できる。さらに、17世紀後半に出雲大社で神仏分離が行われ、神仏習合の影響を取り除いて遷宮が行われた。そのため出雲大社は17世紀後半の建造物と評価されている(18世紀半ばに遷宮がなされたが、基本的には変わっていないので)。その影響は出雲国内他社にも及び、出雲大社に次ぐ佐陀神社でも、神宮寺や仏像が神社の外に出され、神魂神社でも遷宮の際に神宮寺は除かれた。
 以上のことからすると、現在の神魂神社は(その後も遷宮はなされているが)17世紀後半以降の神仏分離期の神社と評価すべきである。また、近世後期以降には、近隣の寺院から古文書を借用して宛名のみを書き換えた中世文書を作成したり、「正平元年十一月」(実際には改元の関係で存在しない)の墨書銘を作成するなどの作業が行われたことが明らかになった。
 歴史は進歩の過程を明らかにしつつ今を考えるための作業である。分野によっては常に進化するとは言えず、その途中経過の確認は当然必要だが、「歴史は古ければ古いほどよい」との誤解は正されなければならない。この誤解が「歴史を造らせる」。歴史は今を考えるために「発見」すべきものだ。

2008年11月16日 (日)

一軒一宗

 天明の飢饉の起こった天明3年9月、石見部の御料に「一軒一宗」の命令が伝えられた。結婚や養子で他家から人が入る際に、従来の旦那寺を変更せずにいるケースがあった。また、生まれた子が男子なら夫の旦那寺、女子なら妻の実家の旦那寺にすることもあった。それが代々続くと、一軒の中に複数の旦那寺があることになる。
 結婚・養子により他家に移ったが、後に実家の跡が絶えたりすると、本人またはその子に実家の跡を取らすこともあった。また、実家の田畑などの財産を相続することもあった。そのため前記のことが容認されていた。ところが、宗門改帳を作成するには、一軒に複数の寺というのは、管理が煩雑となる。そこで石見国御料から寺社奉行に問い合わせたところ、評議の結果、一軒一宗を原則とするという旨の指図があったということである。
 石見国御料と境を接しており、そのことを知った広瀬藩では、取り急ぎ藩領の寺に一軒一宗命令を伝えている。よほどの理由がない限り、そうせよとのことである。同じく境を接する浜田藩領内の智音院は、銀山料乙原村の八郎右衛門が、本来の旦那寺に無断で同村の寺院の檀家となったことを浜田藩に訴えている。御料内の一軒一宗に伴い浜田藩領で生じた変更が、前の寺の放状なしに行われると無効であるとの命令を利用して訴えたものである。
 全国一斉に出されたものではないが、以後、男系への一本化が進む契機となったものであろう。

2008年11月10日 (月)

横田庄と女性(4)

 横田庄はいかにして北条時輔領となったのだろう。三処氏が地頭職を寄進したためと記した。時輔領となった時点の代官は景長であったが、未進が続き舎弟七郎左衛門尉實綱に交替した。その後、時輔が殺害され、妙音が新地頭となると、代官として實直なる人物がみえる。石清水側が、新地頭が前地頭時輔と他人であっても八幡宮の厳重の神用物であり新地頭に懸沙汰するのに、新地頭が時輔の母であるから当然前の未進を納めるべきであるとしている。
 三処左衛門尉長綱と代官景長・實綱・直綱の名をみると、3名の代官は三処氏の関係者であろう。ところが、弘安4年の横田八幡宮棟札には代官として左衛門尉助秀と沙弥明性がみえ、三処氏関係者から代官が交替したかにみえる。妙音が「三所比丘尼」と呼ばれていることから三処郷をも支配した可能性が高い。
 三処氏が東国御家人ではなく国御家人で、後家尼が東国御家人の出身であるとの見通しを示した。代官のうち、實綱は七郎左衛門尉で、それは父と思われる三処左衛門尉長綱と共通である。ところが、国御家人をみると、鎌倉中期になると、官職を持つものは少なくなる。また、官職を得るには多大の負担が必要であった。北条時輔との結び付きによりそれが可能となったのだろう。
 三処氏は北条氏に寄進することにより石清水側の未進分の沙汰要求を抑えようとしたが、石清水側の訴えは続いた。そして地頭は時輔からその母妙音に交替したが、実質的に地頭は幕府の管理するところとなった。そうした中、未進の責任を負わせられる形で三処氏は三処郷をも失ない、失脚したのではないか。三処氏の例は東国御家人中心の鎌倉幕府のもとでの国御家人の動向を知ることができる一例である(了)。 

2008年11月 9日 (日)

横田庄と女性(3)

 北条時宗の母は北条重時の娘であった。これに対し、妙音が「平氏」であったことは棟札から明白である。時輔が殺害された際には、三浦氏一族の佐原盛信がともに自害している。盛信の父佐原光盛は、北条泰時の妻で時氏の母であった女性(三浦義村娘、矢部尼)が後に佐原盛連に嫁いで生んだ子であった。
 妙音は将軍頼経の女房で、最初は時氏の嫡子で時頼の兄であった経時に嫁し、その死後に時頼との間に時輔を生んでいる。その前年の宝治元年(1247)には宝治合戦で三浦氏惣領泰村が滅ぼされている。時氏の妻は安達景盛の娘(松下禅尼)であった。
 安達氏は北条氏との関係を強めて、安達泰盛の娘が時宗との間に貞時を生んでいる。矢部尼と松下禅尼という二人の女性の背後には三浦氏と安達氏がおり、その間で北条氏の当主の座が揺れていた。妙音が平氏であることはすでに述べた。以上のことからすると、妙音は三浦氏の出身である可能性が高いのではないか。
 最後に「三所比丘尼」であるが、横田庄、三処郷ともに実質的には幕府の支配するところとなり、妙音は三処郷内に居住するようになったのではないか。

横田庄と女性(2)

 横田庄の地頭としては、時輔の前の「三処左衛門後家」がいる。時輔殺害の前年文永8年には横田庄地頭が時輔で、三処郷地頭は後家であった。
 横田庄は石清水八幡宮領として成立し、源平争乱期には「横田兵衛尉」が平家方として一ノ谷合戦に参加している。当然その跡は没収されたはずで、出雲国の他のケースからすると、東国御家人に与えられたか、横田兵衛尉の同族の人物が継承を認められたかである。史料上で三処氏が横田庄地頭として確認できるのは、承久の乱後の寛喜元年(1229)であるが、そこですでに「三処左衛門長綱後家尼」と呼ばれていることからすると、後者の可能性が大である。
 三処氏は鎌倉初期に横田庄地頭となり、さらに長綱が地頭請を申し出て、石清水八幡宮がこれを認めた。ところが、寛喜元年以前に長綱が死んで後家尼が継承すると、とたんに年貢の未進がみられるようになった。一旦地頭請は停止されるが、後家尼の申し出を受けて復活した。ところが、やはり未進が続いて、石清水側が幕府に訴えた。
 そうした中で、後家尼は、文永元年に六波羅探題となった北条時輔に横田庄地頭職を寄進して難局の打開を図ったのだろう。それは時輔の母妙音が三処氏の出身であったからではなく、後家尼自身が東国御家人の家出身であったからであろう。出雲国の武士(国御家人)が生き残りのため、東国御家人との間に婚姻関係を結ぶことは珍しくはなかった。
 

横田庄と女性(1)

 弘安4年(1281)の横田八幡宮造営の棟札には願主として「地頭平氏三所比丘尼妙音」がみえている。妙音は前地頭北条時輔の母で、子で六波羅探題の地位にあった時輔が文永9年に異母弟時宗により殺害された後、横田庄の地頭となった。なので、横田八幡宮の願主となるのは当然であるが、問題は「三所比丘尼」である。
 三所(処)郷は横田庄北側の公領で、承久の乱後は三処郷地頭三処氏が横田庄の地頭となっている。その跡を受ける形で時輔が横田庄地頭となり、それを母妙音が継承したものであろう。また、妙音段階では三処郷の地頭にもなったのだろうが、中心所領は横田庄であり「横田比丘尼」であるべきではないか。
 横田庄には岩屋寺があるが、その文書の多くは現在東大史料編纂所が所有する。そうした中、岩屋寺文書の紹介を兼ね、横田庄を概観した論文が編纂所の研究紀要で発表された。従来から『横田町誌』が横田庄について詳細に述べていたが、広い視野からの分析が加わったことになる。
 そこでは、妙音が三処氏の出身であるとする注目すべき見解が述べられた。それならば「横田」でないことを理解できるが、そうすると新たな課題が生まれてくる。妙音は将軍に仕える女房であったが、時頼との間に時輔を生んでいる。出雲国の武士三処氏出身の女性がどのようにして女房になったのだろうか。三処氏が東国の有力御家人の出であるならば、可能であろうが、‥‥。また、そうであるなら妙音の死後、横田庄と三処郷は三処氏が継承するはずである。

ニュージーランド総選挙

 ニュージーランドの総選挙が8日終わり、9年ぶりに保守中道の国民党が政権を奪回し、労働党を率いるクラーク首相が党首を辞任したという。前政権での行き過ぎた民営化を是正してきた労働党政権も、今回の経済不況に対応できず、この結果となった。「両党の政策に大きな違いはない」とのコメントもあるが、現在の政治制度は政権交代が必要である。
 私の記憶が確かなら、前回の選挙ではABのタナ・ウマンガ選手が、クラーク党首と対談していたと思う。ABのニュージーランドでの位置を知ることができるが、一方でスポーツ選手であっても一定の見識を持っていることが伺われた。というのは、50年近く前の巨人・長島選手の「社会主義政権となったらプロ野球はなくなる」との発言と対照的だと感じたから。
 長島選手なりの動物的勘が働いたもので、あるいは当たっていたかもしれないが、もう少し大学卒として広い見識に基づく意見が期待された。別に長島選手を批判しているのではなく、スポーツ漬けであったと思われる日本のスポーツ選手と、一流のスポーツ選手であればこそ学びに裏付けられた広い見識が求められるお国柄の違いを感じたのである。
 付記 ABに関しての以前のブログで「ハンセン」氏を「フランク」と誤記していたことに気づき、訂正しました。そのことを述べるため、今回の文を書いた次第です。

2008年11月 8日 (土)

朝山日乗(2)

 朝山日乗が史料に登場するのは弘治元(天文24)年(1555)のことである。この年「作州朝山」が上洛し、遁世するとともに上人号を授けられた。なぜ、この年なのか、そして、なぜ作州(美作国)なのだろうか。
 朝山氏は平安末期以来の出雲国の最有力在庁官人であり、幕府打倒時の恩賞として、建武政権では備後国守護の地位を与えられ、室町幕府の初期までその地位を維持した。その後、出雲国に帰り、朝山義景は塩冶氏とともに幕府方の中心として活躍したが、14世紀後半には義景の嫡子師綱が、将軍義満の家臣となり、その本拠を畿内とその周辺に移した。師綱は連歌師梵灯としても活躍し、義満から九州島津氏へ使者として派遣されたこともあった。
 朝山氏が出雲国へ本拠を移すのは、幕府が衰退した15世紀末の利綱の代であった。利綱は白川神道家から朝山氏に養子に入り、さらには朝山氏の同族であった佐陀神社神主家を相続した。そのため、朝山氏は中央にも人脈を持っていた。利綱の孫が日乗である。
 以前考えた際には、朝山氏は南北朝期に備後国に所領を持っており、その関係で隣接する美作国にも所領があったのだろうと考えていたが、尼子氏の美作国支配との関係で所領を得たのだろう。天文9年の竹生島奉加帳には「奉公の末」として利綱がみえており、その孫善茂(日乗)が尼子氏のもとを離れるのはそれ以後のことであろう。
 尼子氏の美作国支配の中心となったのは朝山氏と同族(勝部)である宇山氏である。宇山氏は本来、大原郡木次周辺を本拠とする国人であったと思われるが尼子氏直臣の富田衆に組み込まれていた。享禄5年(1532)には美作国で尼子氏から所領を与えられている。尼子氏の美作国支配が強化されるのは、天文21年の幕府からの守護補任前後からで、西部の三浦氏をその支配下に置いた。その際に中心となったのは、尼子国久の嫡子誠久と牛尾幸清であった。幸清は尼子氏直属の富田衆湯原氏の惣領であったが、出雲州衆牛尾氏惣領が晴久に背いて大内氏方となって没落した跡を継承した人物である。朝山氏の美作国進出もそうした中で実現したのだろう。
 しかし、天文22年には備後国をめぐり尼子氏と大内・毛利方で激しい戦闘が行われ、尼子氏は敗北する。そして翌23年に晴久による尼子国久とその一族=新宮党討滅事件が発生し、美作国支配を担った尼子誠久も死亡するのである。このことが、日乗に大きく影響し、尼子氏のもとを去ることになったのではなかろうか。

宍道隆慶(2)

 「隆慶」の名は、父からの「慶」と大内義隆の「隆」からなる。当然、これは大内方となってからのものである。天文9年の竹生島奉加帳では「八郎」とみえ、この段階では元服している。おそらくその名は「詮慶」であったろうが、複雑な想いがあったことは、直後に大内方となっていることからも明白である。
 その後、隆慶は大内義隆の家臣として山口にあったが、同じく尼子氏に背き山口に逃れた佐波興連の娘と結婚し、その間に嫡子政慶が生まれている。天文20年に陶氏のクーデターで義隆が殺害されると、山口を離れ、毛利氏に仕えるようになった。そして、永禄5年(1562)の毛利氏の出雲攻めにより、本領である宍道への帰還が実現した。
 その2年前に晴久は病没しており、尼子氏の当主は義久に代わっていた。義久もまた、尼子国久の娘が母であった。隆慶と義久の母は姉妹であった。そして両者の祖父国久とその一族は8年前の天文23年11月に晴久とその家臣により全滅させられていた。隆慶の没年は天正5年(1577)と推定されているが、判明した生年からすると51歳であった。その後天正19年には、毛利氏の方針に基づき、他の出雲国の有力国人とともに、宍道政慶も転封され新給地長門国へ移っていった。

宍道隆慶(1)

 歴史上の人物を理解するのに、その年齢が重要であるが、没年はともかく、生年がわからないという場合がある。軍記物は、後の官職で記したりするので注意が必要である。表題の宍道隆慶については、近年仏像の胎内名から天文3年(1534)に8歳であることがわかった。大永7年(1527)の生まれである。隆慶は天文9年から10年の大内氏の尼子攻めの際に大内方となり、それが失敗すると大内氏とともに山口へ落ちていった。この時点では15歳であった。
 系図によれば、隆慶の母は尼子国久の娘である。国久は永正7年(1510)に「尼子殿御子息吉田の孫四郎」として登場する。系図のいうように、明応元年(1492)生まれであればこの年19歳だが、出雲佐々木氏の一族吉田氏に養子に入っていた。隆慶の生年からすると、その母は国久の嫡子誠久の姉であった可能性が高い。
 隆慶の父経慶は尼子経久の娘を母として生まれた。尼子氏と宍道氏の連携の要となるべき人物であった。ところが、軍記物によれば、同じく経久の孫で尼子氏を継承した詮久(晴久)との遺恨によりこれに背いて死亡している。そのことは、天文3年段階の宍道氏惣領が8歳の松千代(隆慶)であったことと符合し、事実であったと思われる。問題は父の死亡の時期であるが、6歳の弟寅寿の存在も併せて考えると、享禄元年から天文3年の間となり、塩冶興久の乱に与同した可能性が高い。

2008年11月 4日 (火)

網野史学(3)

 中世と近世はどこが違うのか、古くて新しい問題である。近世史の立場からは、安良城氏の論文「太閤検地の歴史的意義」から自明のことかもしれないが、中世史からは1年先輩の論文「中世に生まれた“近世”」のように、異議ありということか。網野氏と安良城氏では、「百姓の居留の自由」をめぐる論争もあった。
 確かに、出雲国を例にとれば、戦国大名尼子氏段階と、近世の松平氏の段階では違いも多い。前提条件があまりに違うが、松平氏のように佐陀神社との紛争に対する幕府の裁定に不満を持った両国造を引退させたりすることは尼子氏にはできなかったろう。また、飢饉や災害で被害を受けた出雲国の人々は尼子氏に救済や税の軽減を求めることもなかったであろう(誰かには求めたはず)。
 ただ、戦国大名段階なくして近世はなかっただろうし、戦国期と近世前期の共通性があることも確かだ。出雲国では同じ国内であった東北地方の太平洋側よりも、対岸の朝鮮半島との交流が盛んであったろう。さらにいえば、近世後期からは残存する資料が飛躍的に増加するが、それ以前のことは、資料が少なく、よくわからない。尼子氏については行ったことのほんの一部しか資料がない。「資料がないのは行わなかったからだ」とはいえないほどに。網野・石井両氏からも意見を聴いてみたいところだが、今はかなわない。

網野史学(2)

 大学1年の時、先輩の強い引きを受けて、石母田正『中世的世界の形成』を読む自主ゼミに入った。前年度は単位を認められる講座として開設されていたが、それを担当の石井先生をよんで、継続するというものであった。日本史だけでなく、西洋史、さらには法学や倫理を専門としようとする2年生もいたが、議論というものを最初に体験する場となった。戸田氏や河音氏の論文を読みながら、領主制論について論じていた。途中から外部のおじさんも参加されたが、共同体論など理論的な議論をされていた。
 2年の時、石井先生はドイツへ指導へ行かれ、入れ替わるように(実際は宗教史の先生が退官)、義江先生が北大から来られた。石井先生からは、来年は義江くんが来るので、と言われたが、大変まじめな先生だった(後には大変な秀才でもあったことを聞く)。北大では口笛を吹いて歩いていたら、自治会の人に学生と間違われ、早く選挙の投票をするようにと言われたとのこと。義江先生のゼミは「武士成立期の諸問題」というもので、『保元物語』や『平治物語』を読みつつ、議論した。
 その義江氏の著書に『神仏習合』があり、そこでは、10世紀以降貴族社会を中心に強まっていた「ケガレ」が、そんなことを気にしていたら生活が成り立たない武士が政権を取ったことにより、社会的には弱まることが述べられていた。この点と網野史学の成果はどうからんでくるがが問題であるが、小生は義江説を採りたい。

2008年11月 3日 (月)

網野史学

 「あみのさん」とは大学入学当時の1年先輩からよく聞いた。当時『蒙古襲来』や「中世都市論」が話題となっていた。「あみのさん」に「ちゅうせいし」とくれば理系の話題だが、さにあらず、中世史である。大学2年の秋に初めて本郷の中世史研究会に出たが、そこでは網野氏をゲストに迎えて、「中世後期の無縁所について」との報告がなされていた。
 網野氏は南北朝動乱期に未開から文明へとの転換があったことを説かれたが、そこで主張されたいくつかの点は、民衆レベルでは、近世前期から後期への転換にこそ当てはまるという気がする。中世前期の村落は外部の遍歴者を受け入れる柔軟さがあったが、後期にはそれらの人々を差別し、排除するようになるということがその一つ。また、系図の世界でも血族に対する姻族の比重が、中世後期には低下し、系図の記載から失われるという点も。また、網野史学ではないが、身分の上下を維持する朱子学(儒学)の社会への浸透も、近世後期ではないか。
 資料を残したのは中世までは社会の上層の人々であり、そこに記されたことを民衆レベルのことと考えるのは、どうであろうか、という気がする今日この頃である。

近代以降の人口増加(3)

 19世紀中期以降の島根県域の人口増加率の低さの原因として、天保改革時の人返し令による人口移動の容認を考えて、この文を書き始めた。しかし、明治初年の県外への移動は少なく、やや見当はずれとなった。明治後半以降の原因としては、社会減が自然増を減らしたことが大きいと思われるが、1920年以降は国勢調査のデータがあるので、確認したい。
 19世紀中期以降の原因は特定できないが、その一つに、平均気温の上昇があった。出雲国でも平野部の人口が伸び悩み、逆に山間部の増加が著しい。山間部ではたたら製鉄の発展もあったが、気候面も考えるべきであろう。
 西日本はもともと東日本に比べて平均気温が高く、18世紀後半以降の冷害などにより東日本での生産が減少したのに対し、西日本では長期化せず、その程度も軽かった。これに対し、江戸末期から明治期にかけては気温が上昇する局面に入る。これが、東北や関東の人口増加の原因であったことはまちがいなかろう。
 明治初期の東京遷都により、さらに東日本の地位が向上したことも寄与したであろう。さらに、近代化の進展は都市への人口増加をもたらす。近世には都市の人口増加は、そこに隣接する地域の人口減の原因となったが、明治以降は山陰・北陸といった地域からの人口流出をもたらした(了)。

近代以降の人口増加(2)

 福井県では、次第に県外へ出る人の数が増え、本籍数からの減の数も増加していた。島根県についても同様の資料があろうが、とりあえず、手元にある「国勢調査以前日本人口統計集成」に、出寄留と入寄留の総数が掲載されている。その一部を紹介する。
 1872年正月の島根県は、本籍340,042に対して出967、入625で、342人の減である。浜田県は、259,730に対して出195、入164と31人の減。1884年は、なぜか国毎で、出雲が355,059に対し出1104、入603と401人の減。石見が292,908に対し出1748、入737と1011人減。隠岐が32,188に対し出29、入195と166人の増である。
  1886-1897年については出入総数と内訳が記され、688,409に対して、出7,545、入3,393と4,152人減。県外への出3,701に対して入3,199で、この部分の減は502人に過ぎないが、失踪3,272とともに軍や警察で県外へというのが571ある。1897年は718,175に対して出17,486、入8,376で、9,110人の減である。県外出が10,222と初めて1万人を越えたのに対し入は6,399と、この部分の減は3,823。失踪は4,012と微増。これに外国行、軍警察(出入)、監獄(出入)が加わっている。

近代以降の人口増加(1)

 島根県域の人口増加率は、天保の大飢饉以降は、日本の他地域より低くなり、これが明治以降にも続いていく。問題は、その原因がどこにあるかであるが、山陰とともに増加率が低いとされる福井県のデータがネット上で入手できるので、これを手がかりとする。
  近代以降、居住地の移動は自由化された。そのため、本籍地に対して、出寄留と入寄留の問題が生まれた。本籍地は変わらないが、県外へ出たものと県外から 入ってきたものという人口の社会増減の問題が出てきたのである。福井県では、県内での移動、郡内での移動、海外への移動(海外からはなし)のデータ (1882-1921)を知ることができる。1910年以降はデータが完備するが、1882-1896は出入総数と他府県出入総数のみ、それと1898・ 1903・1908の5年毎の出入総数のみが知られる。
 この間一貫して県外出が入を上回っており、この社会減が自然増の部分を減らしている。 1886年は出が9817人に対して、入は2338人であり、本籍数に対し実人口は6489人の減。1898年は県外出36715人に対して入総数 22951である。この年から県内・郡内の出入も統計に加わわったようで、出入とも数が飛躍的に増加するが、県外からの入は1万人弱とみられる。そうする と本籍数に対し25000人以上の減である。1921年は県外出86896人に対して入13005人と本籍数に対し73891人の減である。
 ただ、数字は毎年の社会減ではなく、本籍数に対する過去からの蓄積数としての減であることに注意。いずれにせよ、この部分が自然増の数字を減らしているのである(続)。

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