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2008年10月19日 (日)

岸本左一郎(2)

 岸本左一郎は囲碁史の中ではよく知られた存在だが、地元では「忘れられた棋士」であった。その原因は、世界遺産に登録された石見銀山領の代官所のあった大森の生まれでありながら、「大屋村」の出身であるとされたことと、その弟子岩田右一郎が中心となって建立した記念碑が、「座隠談叢」では但馬国生野にあると記されたことなどによる。
 生野も銀山で知られるところであったことが後者の混乱の原因であろう。前者については、幕末の囲碁棋士の段付の中で「大野丁」出身と誤記されたことによる。「大野」を「おおや」と読み、大森に隣接してある「大屋村」の出身としたのだろうが、大屋村に生家に関する情報があるはずもなかった。また、記念碑が大森にではなく、その北側で日本海に面した大田市仁摩町天河内の満行寺前の丘にあったことも影響した。
 左一郎が大森の出身であることは記念碑にも記されている。また嘉永3年に秀策が石見国を訪れて左一郎と対局を行っているが、そのことを記した庄屋の日記にも左一郎の家が大森にあったことが記されている。さらには、大森町の記録には左一郎の父美濃屋丈助が有力町人の一人として何度となく登場する。
 8月10日から26日にかけて、秀策は和田金太郎と藤田他人蔵を伴い、石見国に滞在した。大田市河合の寺院と静間村の庄屋宅で一局を打ち継ぎ、24日には大田市五十猛(大浦)の庄屋宅で新たな対局を行っている(途中で打ち掛け)。庄屋は本因坊家の門人で初段であった。
 次いで25日に秀策は金太郎を伴い馬路村へ行き、夕方には左一郎と他人蔵とともに大森の左一郎宅に戻っている。そして翌26日に大森を発って広島へ向かった。
 問題は馬路行きで、鳴き砂で知られる琴ヶ浜には本因坊道策の生家があり、そこには道策の記念碑と墓があったのである。また、五十猛の庄屋宅では秀策が以下の和歌を詠んだことも記されている。
   さよふけて嶋音もさむし水鳥の、拂ふ翅に霜やおくらん

 
 
 

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