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2008年10月25日 (土)

虚像と実像

 歴史に関するホームページを開設する予定が、まったく進まないため、とりあえず、ブロクで予告編を書くことにした。論証を含めた詳細は、ホームページ上で述べたい。
 「昔の名前で出ています」とは歌の題名であるが、松江市内の古い歴史を有する神社のいくつかを回り、且つ関係史料を調べてみての感想がこれである。歴史は後からみるものにとっては一瞬でたどることができるが、実際には大変長い時間が経過し、その間継続的に続いたものは家・神社・仏閣でもほとんどなく、栄枯盛衰を感じるだけでなく、名称・場所の変更が変わりゆく歴史の証言者となる。
 ところが、歴史をたどるものは、あたかも過去と現在を一直線に結びつけ、ずっとその名称でその場所にあったとして歴史をつくってしまうことがある。善意に解釈すれば、歴史は起承転結があって初めてアピールするわけで、起と結しか残っていないので、承・転を想像し空白を埋めストーリーを完成するのであろう。しかし次の世代のものは、それを事実と受け止めいつしか虚像が実像になっていく。
 私見であるが、日本社会では明治以降の近代化の中で、それまで培い高めてきた文化と新たな西欧文化それぞれの到達点を対決・吟味しつつ、新文化を導入する作業が十分に行われなかった。これは他のアジア地域と比較しての程度の差の問題であり、一方ではそのような路線を採ったために、アジアの中でいち早く近代化を達成することが可能となったともいえる。
 「歴史に学ぶ」とはよく使われる言葉であるが、その「歴史」とは何であろうか。現在の保守的とされる人々が依拠するのは、近代の天皇制に代表されるように、前代までの達成を忘却し、古代の特定の時期と近代を一直線に結びつけて新たに作り出されたものであることが多い。それも伝統であるが、それとは明らかに異なる伝統が大半なのである。そして近世社会における達成は近代社会が進行する中でそのほとんどが否定・忘却されていった。それとともに社会の中にあった本来変化しにくい部分もしだいに変容していった。

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