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2008年10月

2008年10月31日 (金)

丸毛兼頼

 吉川氏一族で、一時三隅氏領を相続した経兼に対し、小笠原氏の一族で、益田氏庶子の丸毛氏の養子となったのが、丸毛兼頼である。丸毛氏は益田兼時と周布兼定の弟兼忠に始まる。兼忠には子として太郎兼信がいたが庶子となり、小笠原長氏の子兼頼を養子に迎え惣領とした。西国御家人が東国御家人との婚姻関係により生き残りをはかったのだろう。
 群書類従本御神本氏系図は兼頼以降については記さないが、別に「小笠原別流丸毛家系譜」(河毛系譜所収)が残っている。兼頼は足利尊氏方となり、建武2年の中先代の乱で戦死した。その子惟頼は石見国に居住したようだが、益田氏一族の「兼」をその名に付けていないことが注目される。
 その子孫は、やがて石見国を離れ、戦国期に美濃国で活動する「長照」の存在が確認できる。小笠原氏の祖長清にちなみ長照以後は「長」をその名に付けた。丸毛氏は信長・秀吉・家康に仕え、江戸時代には旗本となった一族や、九州・臼杵藩の家臣となったものがあった。後者については臼杵市に「丸毛家住宅」が残されている。

2008年10月26日 (日)

All Blacksのヘッドコーチ(6)

 第6回大会での敗北を受け、新監督の選考が始まり、本命ディーンズ、対抗ガットランドといった予想があったが、立候補締め切り直前にヘンリーが手を挙げた。これに対してガットランドはウェールズ監督に就任し、ディーンズもライバルであるオーストラリア代表ワラビーズの監督になった。この結果、ABの監督は再びヘンリーが就任した。一説には、ヘンリーから途中でハンセンに交替する予定で、それがためにディーンズは立候補しなかったとされる。
 第7回のニュージーランド大会へ向けた最初の年のトライネーションズは、最終戦でディーンズ率いるオーストラリアを破ったヘンリーのABが優勝した。これまでの大会をみていえることは、ABは常に完成度が高く、どの大会でも好成績をあげるが、他のチームはワールドカップ直前にかなり力がアップする傾向にある。ABが思ったような成績が上がらない一因もそのあたりにある。
 この文は、第1回大会後の監督選考が、今に至るまで尾を引いていることを述べただけであって、ヘンリーではなく、ディーンズだとの意見があるわけではない。ただ、野球のWBCではないが、その時点でのNo1監督がABの監督となることが、優勝への近道であろう。ヘンリーも第4回大会の時点が最もあぶらがのっており、ふさわしかったと思う(了)。
※若干インターネットで確認したが、記憶に基づき一気に書いた。そのため思い違いがあるかもしれないが、その場合は訂正したい。

All Blacksのヘッドコーチ(5)

 ヘンリーは、ウェールズ監督として成果を上げて帰国してきたハンセンをフォワード担当の、元監督のスミスをバックスコーチに起用し、強化を行った。特に弱点とされるフォワードの強化はハンセンの指導のもとで順調に進み、スクラム・モールで他チームを圧倒するようになった。
 一方、クルセイダース(カンタベリー)を率いるディーンズも順調に結果を出し、ABのフォワードとバックスの要であるマッコウとカーターはクスセイダースの選手であった。ヘンリー率いるABもトライネーションズとテストマッチで高い勝率を上げたが、その一方で、試合ごとに選手の交替が目立つことを不安視する意見もあった。層は厚くなったが、誰がレギュラーか選手本人にもわからないということである。
 第6回大会は2007年にフランスを主会場に開催された。ABは2007年前半のスーパー14を主力選手を欠場させて調整を行ったが、ワールドカップの予選リーグの試合では試合経験の少なさにより選手の調子があがっていない様子であった。
 そして迎えた準々決勝のフランス戦はウェールズで行われた。前半はAB優勢で、フランスにチャンスはなさそうであったが、選手交替が当たって後半にフランスが逆転すると、ABの攻撃は単調となり、挽回できないままにノーサイドの笛が吹かれ、今回もまさかの、そして史上最低の結果となった。

All Blacksのヘッドコーチ(4)

 ウェールズ監督となったヘンリーは第4回大会では準々決勝で敗退したが、本番である第5回大会へ向けて順調な強化を行っていた。その評価は2001年にブリティッシュ・アイリッシュライオンズのオーストラリア遠征の監督に選ばれたことにあらわれている。ライオンズは英国4協会の合同チームで4年に一回組織され、南半球3ヶ国へ順番に遠征している。
 ところが、その後問題が発生し、ウェールズの成績があがらない中、ヘンリーは監督を解任され、アシスタントコーチであったハンセンが監督を引き継ぐ結果となった。失意のヘンリーはニュージーランドへ戻り、関係の深いオークランドの強化にあたり、結果として、独走を続けるカンタベリーの連続優勝にストップをかけた。カンタベリーはスミスの後任ディーンズが監督として成果を出していた。
 第6回フランス大会へ向けての監督選考は、国内No1の指導者であったディーンズが有力かと思っていたが、第7回大会の地元大会が決定した中、協会は、外国代表監督はAB監督の資格を失うという規定を変更し、ヘンリーを監督に選んだ。8年前に監督の座を遅れてきたハートに奪われたヘンリーが、同様の立場となり、ディーンズの監督就任を阻む結果となり、再び世代のズレが生じた。

All Blacksのヘッドコーチ(3)

 ハートの辞任を受けて、次の第5回大会へ向けた監督に、カンタベリーを率いてNo1指導者であったスミスが選出された。ハートの8年遅れの監督就任によるズレがようやく解消されたかにみえた。だが、スミスのABは圧倒的強さを発揮するに至らず、不安を持った協会は、監督の再選考を行い、スミスではなくミッチェルを選んだ。
 監督交代によりセレクションも変わり、ウイルソン、カレンといったベテランの名選手が引退を余儀なくされ、大幅な世代交代が進んだ。欧州に遠征したメンバーは「ベイビーAB」と呼ばれた。第4回の頃よりラグビーのプロ化が進み、それまで南半球勢に対し体力面で劣るとされた北半球にも、大きくて且つフィットネスが高い選手が増加した。その中心はプレミアリーグのあるイングランドだった。
 ハートは大きさよりスピードを重視したが、結果としてスピードはあるが、強さにかけるチームとなっていた。その状態は第5回大会のABも同様であった。大会は優勝候補筆頭のイングランドがオーストラリアを破って優勝した。

All Blacksのヘッドコーチ(2)

 ワイリー監督で第2回ワールドカップに臨んだが、ワイリー氏もオークランド勢中心の中、思いきった若手の起用ができず、第1回のメンバー中心で、準決勝でオーストラリアに敗れた。第3回大会へ向けた監督選考でもハートは再び敗れ、メインズ監督で大会に臨んだが、アパルトヘイト廃止により国際社会に復帰した開催国南アフリカに決勝で惜敗した。
 ニュージランド協会は3度目の正直として、第4回大会の監督にハートを指名した。8年遅れの監督就任は、当時オークランドを率いてNo1の指導者であったヘンリーを、ウェールズ監督へと追いやった(当時は外国チームの監督をすると、AB監督の途は閉ざされた)。ハートはバックスコーチ出身でもあり、大きさよりもスピードを重視した選手選考をし、今度こそと思わせ、南ア・オーストラリアとのトライネーションでも連勝していたが、最終のオーストラリア戦でまさかの敗北を喫し、不安を残して大会に臨んだ。
 そして準決勝のフランス戦である。半年前には遠征してきたフランス代表に大勝していたこともあり、ハートは試合の前に決勝に向けた練習スケジュールを発表した。そして結果は、守備が破綻し、まさかの敗退となった。

All Blacksのヘッドコーチ(1)

 1970年のサッカーワールドカップメキシコ大会の時の報道だと思うが、ブラジルは実力はNo1だが、なかなか勝てないということを聞いた(今調べるとそうでもないが)。メキシコ大会はイタリアとの決勝に勝利してブラジルの優勝となった。
 ラグビーでは1987年に第一回ワールドカップがKDDが冠スポンサーで始まった。それまでは国ごとに訪問しあってテストマッチを行うのが一般的で、世界大会はなかった。その第1回大会は、オーストラリアが最有力との下馬評を覆して、開催国ニュージーランド(All Blacks=AB)の圧勝で幕を閉じた。
 ところが、それ以後2007年の第6回大会まで、ABは5回続けて優勝していない。IRBのランキングではここ20年の内、3分2以上の間世界1位であったにもかかわらずだ。
 唯一の優勝監督ロホアの後継は2人のアシスタントコーチの内、国内最強のオークランドを率いるハートが確実視され、ハートは大会後ABを率いて日本へもやって来た。ところが、監督決定の投票では、ハートではオークランド偏重となるとして、No2のカンタベリーを率いるワイリーが選ばれた。現日本代表を率いるカーワンもオークランドの選手で、ワイリーのもとではABになれないなどと言ったが、決定が覆るわけはなかった。

異人はなぜ登場したか?-天明3年一揆(2)

 社会が必要とする勤勉や、規律や衛生は、実は江戸民衆社会に、欧米のそれとは形態が違っていたかもしれないが、成熟をとげた形で存在したのである。だとすれば、明治初年の文明開化とは、何ものだったのだろうか。[井上勝生『幕末・維新』(シリーズ日本近現代史① 岩波新書)P238]
 近代史の世界でも、明治維新・文明開化の相対化の作業が始まったようです。「虚像と実像」で触れたように、江戸時代というのは捨てたものではないというのが、島根県の近世後期から近代の資料をみての感想です。
  飢饉が発生すれば、例年より死亡者が増え被害が出ているのですが、一方で、藩が救済のための措置を行うだけでなく、地域の有力者が救済のために食料を提供するのはあたりまえの義務であったようです。現代はどうでしょうか。
  飢饉が起こると最も打撃を受けたのは、農業生産の比重が低い地域(町や漁村)と人々(非農業民)でした。天明3年に打ちこわしが起きた大津も斐伊川沿いの町で、山陰道を介して日本海水運とも結びつく地でした。それだけに有力な町人も多く、その人々も食料を提供しています。ただ、それで十分であったわけではなく、特定の有力町人が打ちこわしの対象ともなっています。また、藩政への批判が「異人」の登場につながったのです。

2008年10月25日 (土)

異人はいなかった?-天明3年一揆(1)

 浅間山噴火を原因とする天明の大飢饉により、各地で一揆・打ちこわしが発生した。島根県でも、大田と大津、三刀屋の事例がよく知られている。特に大津と三刀屋の事件は①「雲国民乱治政記」では、長身の異人が登場して人々を先導(扇動)したことが記されている。
 これに対して②「百姓騒動一件」が残されている。東大史料編纂所が明治26年に③「天明凶作一途」や④「年々飢人勞留帳」(明和5・6、天明3)などとともに採訪しているが、明治末から大正初年にかけての島根県史編纂時には②のみ調査されていない。戦後の『大津町史』でもこの事件について関係資料を網羅して詳細に記述されているが、②の存在は知られていなかったようだ。③で「此一件委敷事は別巻にしるし置候也」と記されているのが②であろう。
 ②でも①と同様三刀屋の事件について詳細に記述しているが、当然のことながら異人は登場しない。また、①では記述されなかった、打ちこわしの一団が藩に窮状を訴えようと森広幾太に働きかけた後の状況についても、関係者の処罰を含め記している。①と②を比較することにより、①の作成の意図もより明確になろう。

虚像と実像

 歴史に関するホームページを開設する予定が、まったく進まないため、とりあえず、ブロクで予告編を書くことにした。論証を含めた詳細は、ホームページ上で述べたい。
 「昔の名前で出ています」とは歌の題名であるが、松江市内の古い歴史を有する神社のいくつかを回り、且つ関係史料を調べてみての感想がこれである。歴史は後からみるものにとっては一瞬でたどることができるが、実際には大変長い時間が経過し、その間継続的に続いたものは家・神社・仏閣でもほとんどなく、栄枯盛衰を感じるだけでなく、名称・場所の変更が変わりゆく歴史の証言者となる。
 ところが、歴史をたどるものは、あたかも過去と現在を一直線に結びつけ、ずっとその名称でその場所にあったとして歴史をつくってしまうことがある。善意に解釈すれば、歴史は起承転結があって初めてアピールするわけで、起と結しか残っていないので、承・転を想像し空白を埋めストーリーを完成するのであろう。しかし次の世代のものは、それを事実と受け止めいつしか虚像が実像になっていく。
 私見であるが、日本社会では明治以降の近代化の中で、それまで培い高めてきた文化と新たな西欧文化それぞれの到達点を対決・吟味しつつ、新文化を導入する作業が十分に行われなかった。これは他のアジア地域と比較しての程度の差の問題であり、一方ではそのような路線を採ったために、アジアの中でいち早く近代化を達成することが可能となったともいえる。
 「歴史に学ぶ」とはよく使われる言葉であるが、その「歴史」とは何であろうか。現在の保守的とされる人々が依拠するのは、近代の天皇制に代表されるように、前代までの達成を忘却し、古代の特定の時期と近代を一直線に結びつけて新たに作り出されたものであることが多い。それも伝統であるが、それとは明らかに異なる伝統が大半なのである。そして近世社会における達成は近代社会が進行する中でそのほとんどが否定・忘却されていった。それとともに社会の中にあった本来変化しにくい部分もしだいに変容していった。

2008年10月24日 (金)

岩田右一郎

Photo_4  岸本左一郎の記念碑建立に尽力したのは、岩田右一郎であった。師左一郎にちなんで右一郎と名乗った。岩田自身は明治18年(1885)4月に石谷廣策との対局中に倒れて、そのまま亡くなった。囲碁と日本画を指導しつつ各地を回った人生だった。
 明治末になって、入門した直後に岸本が亡くなり、以後は岩田の弟子となった内垣末吉が中心となって、岩田の記念 碑を建立した。石碑の題字の揮毫は明治の元老井上馨、紀徳文の起草はインド哲学者で後に文化勲章を受章した高楠順 次郎、筆は日高秩父(小学校書道教科書の手本を執筆)の手になるもの。学問の神様しとて知られる松江の白潟天満宮の敷地内に建立された。除幕式は大正2年10月のことであった。
 上の写真は1998年に撮影したもので、天満宮から宍道湖公園内に移されていた。ただし、公園の再整備の中、その姿を今見ることはできず、所在は不明である。安来市荒島の円光寺境内にある岩田の墓は、台座の部分は碁盤をあしらっている。左一郎の大森の墓もそうであったとされるが、現在は所在不明である。

吉川経兼

 吉川経兼は吉川経茂と三隅氏庶子永安氏の娘良海の間に生まれ、後に安芸吉川家を継承した人物である。貞和4年(1348)までは「経明」とみえるが貞和5年に「経兼」と改名したとされる。妥当な見解であるが、いくつか解明すべき課題がある。
 一つは、この人物が、正慶2年(1333)には「経兼」とみえることである。当初「経兼」を名乗りながら、「経明」と改名し、再度「経兼」に戻したことになる。その背景には何があったのだろうか。
 もう一つは、「経明」が後に石見吉川氏の所領となる津淵村地頭となったのはいつの時点かということである。史料で確認できるのは康永2年(1343)8月以降であるが、それ以前から津淵村を譲られていたとする解釈がなされている。
 経明(兼)の兄弟には、嫡子経貞の外に「経任」がいた。貞和5年に、母良海と経貞が対立した際に、経明は母とともに三隅氏(反幕府)方に転じ、経貞に代わる新たな後継者として「経兼」と改名したと考えられる。
 同様に、「経兼」から「経明」に改名する契機となったのは、南北朝の動乱の開始であった。南朝方の中心であった三隅氏惣領と袂を分かち、経兼が母良海・経貞とともに幕府方となったため、三隅氏や益田氏一族が付ける「兼」をその名から外したのであろう。
 詳細は省略するが、本来、津淵村を譲られていたのは経明(兼)の兄弟であった「経任」で、この経任が南朝方となったため幕府はこれを没収し、康永2年に恩賞として経明に与えたと考えられる。その後、経兼の一族が安芸吉川氏の惣領となったため、津淵村は、経任の子孫に返され、これが石見吉川氏となっていく。

2008年10月22日 (水)

岸本左一郎(5)

 秀策囲碁記念館にも展示されていた「常用妙手」の序文を記す。

古今珍陟(ママ)多けれども大方は奇形にして常用の妙手にあらず。されば上手の幣となりて下手の得益は甚だ少し。これによりて初心の益あらん事を記せんと思ひ、或ハ古き碁経より形勢を撰出し、又ハ打碁の能出る善手を記して、偏ニ初輩上達の為となす。あハれ願ハ実学ニ入て不用の奇を好まず。此経によりて石の生死を知らば自今盤面、明なるべし。
   安政二卯年九月 岸本左一郎

一般の人が囲碁を学ぶための書物を作るために、左一郎が工夫をしたことが述べられているのは、「活碁新評」のあとがきに通ずる。問題はそれが、後世の評価に耐えられるかである。「活碁新評」は戦後に長谷川章氏(後の日本棋院理事長)により「棋道」で連載・紹介され、本にまとめられた。以下はその序文である。

これまで一般の書物にみられる“手筋集”などは、どちらかといえば、実戦とは直接関係なしに造られたものが多い。そのため折角その手筋なり形なりを覚えても、仲々実戦には役立たないという憾みがあった。この講座では、もと棋道に永く掲載された“活碁新評”を収録したものである(中略)。
 岸本左一郎七段が“活碁新評”を著したのは嘉永元年で、世情騒がしく人心もまた穏やかでない時代のことであった。したがって、棋界も漸く衰退の気配をみせ、棋士の生活もまた苦の一途をたどったのである。その間にあって、原著の如き名著を生んだ事実はまさに驚嘆に価し、岸本七段の碁に対する造詣の深さを推察できるのである。

実際に藤沢秀行「基本手筋事典」(上)には「活碁新評」からの引用が明記されたものが多い。

2008年10月20日 (月)

岸本左一郎(4)

 岸本は嘉永元年に大坂で「活碁新評」を出版した。篠崎小竹の序文は「坐隠談叢」に引用され有名であるが、ここでは岸本による「あとがき」を引用したい。序文の「敢えて其の志を堕さず」の意味が明確になる。

わか父世にありし時囲碁をこのまれけり。おのれも幼き頃より此道に心さし深くおこたらす学ひけるを悦ひてか、ふかくちからをそへられしも、今ハなき人の数に入て三年あまりになんなりぬる。されは追慕の碁会をいとなまんとするに、ちかきわたりの人々ハなへてつとひもすへけれと、遠き國のともからはこころにまかせねもあるへけれハ、とやせましかくやせましと思ひわつらふ折ふし、父のかねて幼学の心得やすきおもふきの手談をつくりて世に傳へよかしといはれしをおもひ出て、かわかぬ袖をしほりつ々霊前に手向かてら、碁経めくもの書こころミつるを桜木にえらしめて、同し心の人たちにおくりなは、おのつから父の志にもかなひ追福のためともなりぬへしと、友とちのす々めによりて、かく物したるになん仕るを、何事も行たらハぬ若き身のさし過たるかこのわさと思ふ人もあるへけれと、た々父のめくミの忘れかたき心よりのすさひと見、ゆるし給ひてよ
   嘉永元年九月 岸本左一郎直樹
                しるす

岸本左一郎(3)

 本因坊秀策が現在の島根県を訪れたのは、嘉永3年8月と安政4年5月である。前者についてはすでに述べた。安政4年(1857)は岸本左一郎を見出した山本閑休の十七回忌にあたり、2月には追善の碁会が開かれている。そして5月3日に、秀策が葛野亀三郎と遠藤晏平を伴い、出雲市知井宮の山本家を訪れ、11日まで稽古碁を打っている(「安政四年丁巳五月三日秀策先生御来臨之節稽古勝負録」)。その相手には、有段者だけでなく囲碁を打てる程度の人もみられ、囲碁が学問修行と密接な関係があったことが知られる。
 次いで、秀策一行は玉造温泉で、山陰の強豪との稽古碁を行った。知井宮と玉造での有段者との棋譜は秀策全集にも掲載されている。
 山本閑休(1762~1841)は山本家当主として神門郡与頭(郡を代表して藩の役人と交渉する下郡の補佐役)を勤めた後、六十才前後で息子に跡を譲り、近隣の子弟を集めて学問を教えていた。若いときには東北地方から九州までをめぐり、囲碁は家元井上家から初段を認められていた。
 山本家文書は現在早稲田大学が所有するが、その「天保六未如月日新坐隠録」は、天保6年から8年にかけての石見国東部から出雲国西部の囲碁グループの記録である。その天保6年3月21日には、石見国の大田天満宮に参詣し、その後河合で行われた碁会の3月25日の記録に左一郎とその父美濃屋丈助がみえる。左一郎は天保8年2月に松江から金森榮八を招いて開かれた碁会にまでみえ、その棋力は急速に上昇していた。
 その後、父とともに江戸に上京し、本因坊家に入門した。同年12月には7才下の秀策が入門してきた。

2008年10月19日 (日)

朝山日乗

 同じく「ふるさと読本」では「朝山日乗」を採り上げた。戦国時代の島根県の武将といえば、戦前には文部省が全国の教員を集めて研修会を行った「山中鹿介」が有名であるが、日乗はこれまた研究上の問題があると思ったこともあり「忘れられた人物-朝山日乗のこと」という意味で、採り上げた。自分に小説家の才能があれば、対照的な生き方をした日乗と鹿介をテーマとする小説を書くのだが、誰か外にいないのだろうか。
 日乗を本格的に論じたのは松江出身の歴史家三浦周行氏で、日乗を織田信長政権前半の立役者と評価した。また、戦前の郷土史家で佐陀神社神主であった朝山皓氏も、日乗が朝山氏の出身で関係資料が神社に残されていることもあって「佐陀庄地頭としての朝山氏」の中で、日乗について触れている。
 ところが、戦後は、「朝山日乗」ではなく「日乗朝山」で、日乗と朝山氏は無関係であるという、織田信長文書の研究で知られる奥野高広氏の説が有力となり、古文書研究で知られる荻野三七彦氏もその説を支持された。
 それに対して、朝山氏関係史料と系図を検討する中で、日乗は朝山氏と考えるべきとの結論に達したことと、日乗の独特の生き方に注目して「読本」に採り上げた。ただし、その前に朝山氏に関する論文をまとめ、日乗に関係する記事を地元紙に掲載して貰った。
 日乗は戦国大名尼子氏の家臣として活動していたが、その立場を放棄して、中国地方を制覇しつつあった毛利氏と結んでいく。次いで、上洛して毛利氏と対立しつつあった織田信長と結ぶのである。信長は、自ら擁立した15代将軍足利義昭に対し、遵守を求めた箇条を提示しているが、それに署名したのは、信長の家臣であった日乗と明智光秀であった。

高津長幸

 「ふるさと読本」では、島根県の中世史に関する部分を担当したが、各文にはコラムを入れた方がよいとの意見があり、「間違えられた人」とのコラムを書いた。戦前は郷土の忠臣の一人に数えられていた「内田致景」が、実は一貫して幕府方であったことを述べた。
 同じく忠臣とされたのが「高津長幸」で、地元小学校の校歌の中にも登場した。顕彰するからにはあいまいさは許されないだろうが、残された史料をみると、様々な疑問が生じてくる。
 高津長幸は高津道性とも呼ばれ、源頼朝の弟範頼の流れをくむ吉見氏の一族であるとする理解が一般的だった。大変充実し、参考になる点の多いHP「吉見一族」でもその説が踏襲されている。ところが、同一人物が一次史料で、法名である「道性」と記されたり、「余次長幸」とされることはありえず、両者は親子である可能性が大きい。また、鎌倉末期にはすでに「高津」氏と呼ばれるからには、益田氏などと同じ地元の武士か、鎌倉初期に高津郷に入部した東国御家人でなければならない。現時点では地元の武士の可能性が高い。
 高津道性は吉見氏とともに長門探題攻撃の中心として活躍し(ここでも区別されている)、南北朝動乱初期の軍忠状には、幕府方が「石見国守護代」を高津余次長幸の城に攻めたと記される。守護代と長幸の関係が注目されるが、今年、「益田家文書」を担当する東大史料編纂所久留島教授がまとめられた科研報告書には、道性が建武政権下で石見国守護であったことを示す史料(新出周布文書)が掲載されている。道性没後、その子と思われる長幸が南朝方の石見国守護となったがために、長幸の城に守護代がいたこととなる。
 鎌倉時代の石見国守護については、東部の安濃郡(大田市)にいたことを明らかにした論文が昨年公開されたが、守護と御神本氏惣領益田氏の関係を考える材料がまた一つ追加されたことになる。

岸本左一郎(2)

 岸本左一郎は囲碁史の中ではよく知られた存在だが、地元では「忘れられた棋士」であった。その原因は、世界遺産に登録された石見銀山領の代官所のあった大森の生まれでありながら、「大屋村」の出身であるとされたことと、その弟子岩田右一郎が中心となって建立した記念碑が、「座隠談叢」では但馬国生野にあると記されたことなどによる。
 生野も銀山で知られるところであったことが後者の混乱の原因であろう。前者については、幕末の囲碁棋士の段付の中で「大野丁」出身と誤記されたことによる。「大野」を「おおや」と読み、大森に隣接してある「大屋村」の出身としたのだろうが、大屋村に生家に関する情報があるはずもなかった。また、記念碑が大森にではなく、その北側で日本海に面した大田市仁摩町天河内の満行寺前の丘にあったことも影響した。
 左一郎が大森の出身であることは記念碑にも記されている。また嘉永3年に秀策が石見国を訪れて左一郎と対局を行っているが、そのことを記した庄屋の日記にも左一郎の家が大森にあったことが記されている。さらには、大森町の記録には左一郎の父美濃屋丈助が有力町人の一人として何度となく登場する。
 8月10日から26日にかけて、秀策は和田金太郎と藤田他人蔵を伴い、石見国に滞在した。大田市河合の寺院と静間村の庄屋宅で一局を打ち継ぎ、24日には大田市五十猛(大浦)の庄屋宅で新たな対局を行っている(途中で打ち掛け)。庄屋は本因坊家の門人で初段であった。
 次いで25日に秀策は金太郎を伴い馬路村へ行き、夕方には左一郎と他人蔵とともに大森の左一郎宅に戻っている。そして翌26日に大森を発って広島へ向かった。
 問題は馬路行きで、鳴き砂で知られる琴ヶ浜には本因坊道策の生家があり、そこには道策の記念碑と墓があったのである。また、五十猛の庄屋宅では秀策が以下の和歌を詠んだことも記されている。
   さよふけて嶋音もさむし水鳥の、拂ふ翅に霜やおくらん

 
 
 

2008年10月18日 (土)

岸本左一郎(その1)

 10月12日(日)に、松江市から因島と瀬戸田を訪ねた。因島に開館した秀策囲碁記念館と平山郁夫美術館で展示中の「洞窟の頼朝」を見るために。
 秀策囲碁記念館では開館記念の「江戸時代の囲碁文化と囲碁殿堂展」が開催中であった。その展示資料に、秀策と関わりが深い岸本左一郎の著書「常用妙手」と「囲碁定石集」があった。前者は10年前に三原市立図書館で見たことがあったが、後者は初めてで、いずれも個人蔵と記されていた。
 10年前、因島市立図書館で開催中の「日本囲碁文化展」を見に行った。囲碁の段付や江戸時代の囲碁の本がたくさん展示されていたが、残念なことにその時点では「左一郎」の存在を認識していなかった。ただ、秀策関係の本を手にとって見ていたら、後から高齢の女性が「岩本薫さんは元気でしょうか」と声をかけられた。振り向くと、「私は島根県益田市から因島に嫁いで来た」とのことで納得し、健在であることを答えたが、あまりの偶然に驚かされた。
 岩本薫元本因坊は益田市の生まれで、原爆投下時の広島での橋本宇太郎との本因坊戦の対局(橋本本因坊に挑戦)で知られるが、それ以上に著書「囲碁を世界に」に記されるように、囲碁の海外普及に尽力したことが特筆される。
 囲碁殿堂入りしている本因坊道策も島根県大田市仁摩町の出身で、資料館には、道策の生家に残る道策の肖像画も展示されていた。島根県の高校生向けの「ふるさと読本」で、道策と岩本薫の両本因坊について執筆してはいたが、道策の肖像画の現物とは今回が初対面であった。
 原稿執筆後、岸本左一郎のことを知り、もう少し時間があれば、両本因坊の原稿を左一郎の原稿に差し替えたかったというのが正直なところであった。それでもとりあえず、地元の新聞に「岸本左一郎-石見が生んだ幕末の名棋士」を掲載してもらった。自分では「忘れられた棋士-岸本左一郎のこと」と、ハーバード・ノーマンが安藤昌益について述べた著書にあやかった題名を考えたが、編集者の意向で、前述の題となった。
 

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