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2021年5月13日 (木)

出雲守季仲について3

 これについては、出雲守季仲は存在せず、高階重仲の誤りだとする大日方克己氏の説を批判したが、もう少し補足しておく。
 大日方氏は天仁元年(実は改元前の嘉承三年)二月二二日に山陵使として嵯峨に派遣される予定であった「元使出雲守藤原季仲」を大日本史料の編者の注記のように顕頼の誤記とするが、顕頼はその一月前に補任されたばかりであることと、「顕頼」を「季仲」と誤記する(即位雑例条々兼日に収録する際)ことは考えられない。柏原に派遣される予定であった「元使下野守源朝臣経兼」、村上に派遣される予定であった「元使肥後守藤原為宣」はそれぞれ「前下野守」、「前肥後守」の誤りであり、「前出雲守」の誤りならありうることである。また「出羽」と「出雲」を誤記した例は存在するので、本来は「前出羽守藤原季仲」(前述のように出雲守退任後しばらく間を置いて出羽守に補任されている)ではなかったか。実際に、嘉承二年八月一七日には尊勝寺等七ヶ寺に没後四七日(初七日に対する表現。五七日の御誦経使は二三日に派遣)の御誦経使が派遣されているが、堀河天皇の埋葬地となった香隆寺に派遣されたのは「前出羽守季仲」と式部少輔有元であった。
 もう一点、大日方氏は重仲の死亡記事に出雲守に補任された八年後に任中公文を済ましたと記されていることをあげるが、これはイコール八年間在任したことを意味しない。寛和五年に季仲の見任が確認できるが、この年の内に重仲と交替しておれば、死亡記事に適合するのである。

2021年4月28日 (水)

伯耆守平国盛2

 問題は国盛の系譜上の位置づけであるが、教盛の二男国盛(教経)は応保元年には二才でしかなく、備前守国盛とは別人である。そこで尊卑分脈で確認すると、時期的には平国兼の子国盛が該当する。分脈には国盛については小野(あるいは北野)判官という尻付しかない。国盛の祖父兼季は上総守に補任されているが、検非違使としての活動が中心である。国兼の兄弟盛兼も検非違使の傍ら、摂関家と関係の深い和泉と佐渡の国守を歴任している。盛兼の子信兼も河内・和泉の国守を歴任しているが、久寿二年(一一五五)年には頼長との間に乗合事件を起こし、父盛兼が頼長に従属を誓う名簿を差し出すという事件を起こしている。そして信兼の子で義絶され赴いた伊豆国で目代となり、頼朝の挙兵で血祭りにあげられたのが山木判官兼隆である。
 ということで、備前守に補任された平国盛は国兼の子と思われる。国盛の従兄弟信兼は治承・寿永の乱時には出羽守在任中であった。国盛は永万元年七月一八日に備前守を退任し、備前国は邦綱の知行国となって子隆成が国守となった。その一三ヵ月後の仁安元年八月二七日の除目で国盛は伯耆守に補任されたが、翌年二月七日には伯耆国は平時忠の知行国となり、その異母弟親宗が国守となっている。国盛は邦綱と同様、摂関家と平家(基実と清盛は連携)の両方と関係を持っていたと思われる。仁安四年一月一一日の除目(兵範記)にみえる「民部権大輔平国盛」は備前・伯耆守国盛と同一人物であろう。
 本稿は五味文彦氏作成の備前国受領表の内容(平国盛とその関連史料)を再確認したものである。新たに加えたのは国盛の系譜上の位置づけである。国盛が伯耆守在任中の伯耆国は平氏知行国かどうかは微妙である。

伯耆守平国盛1

 伯耆国受領表の作業時には気付かなかったが、当該の人物の系譜上の位置づけについて変更が必要となった。平教盛と日野資憲の娘との間に生まれた二男教経の初名が国盛であったため、伯耆国司国盛をこれに比定したが、備前国受領表作成により、平国盛がもう一人いることに気付かされた。それは応保元年四月三日に備前守に補任された平国盛である。補任時の除目表は残っていないが、摂関家有力家司藤原邦綱がこの日に越後国から伊予守に遷任している。伊予守はそれまで清盛の嫡子重盛が国守で清盛の知行国であったが、清盛の知行国が備前に移動している。『愚管抄』によれば、後白河院が備前国を清盛の知行国として御願寺蓮華王院を造営させ、長寛二年一二月一七日に供養が行われた。造営は伊予国が知行国の時点から開始されているが、造営を名目に備前国で知行国の継続が認められたのであろう。
 そして供養の日に清盛の嫡子重盛が正三位に叙せられているが、それは蓮華王院を造営した国司の功を譲られたものであった。最初に確認した史料編纂所データベースの重盛死亡時の史料総覧の記事(それまでの公卿補任の記述がまとめられている)には国司清盛から譲られたとあり、とまどったが、五味文彦氏『平清盛』で確認すると、「清盛」は「国盛」の誤りであった。国会図書館デジタルの公卿補任、重盛が正三位に叙せられた際の史料総覧の記事も「国盛」となっていた。たまたま、最初にみた記事が誤っていた。
 前に述べたように、越後守邦綱は忠通知行国の国守であったが、伊予守邦綱は独立した忠通有力家司として支配であった。越後は忠通の知行国のままで、国守は過去に忠通知行国備前の国守であった源信時であった。

2021年4月22日 (木)

益田庄の庄園領主3

 大家庄とともに以前に述べた表記の点についても補足する。
 大家庄については曆仁元年(一二三八)一二月に九条良平・高実父子が成恩院に施入した中にみえていた。その直後に元宜秋門院であった異母姉立子が六七才で死亡したことはすでに述べたとおりであるが、良平も翌二年正月一九日に太政大臣を辞して出家し、出家の一年二ヵ月後には五七才で死亡している。子高実は権大納言であったが、父出家の一二日前に仗座で意識不明となり、なんとか蘇生したが、二月二三日には権大納言を辞して民部卿に転じている。健康面の問題であろうが、仁治元年正月二二日には民部卿も辞して散位となった。良平の死はその二ヵ月後であり、高実の嫡子忠基は一一才であった。さらに高実は仁治三年三月一七日には出家し、一八才となった忠基が非参議従三位に叙せられた寛元五年(一二四七)正月の一年七ヵ月後には三二才で死亡した。
 後ろ盾のない忠基はながらく非参議に止められ、ようやく弘長二年(一二六二)正月二六日に参議となり、三月二九日には従二位、七月一六日には右衛門督・別当に補任されたが、その直後に所労により別当を辞し、一二月二一日には参議と右衛門督も辞している。健康面に問題があり、最後にアリバイ的に補任されたものであろうか。翌三年二月三日に出家し、五日に三四才で死亡している。こうした中で、忠基の母である藤原経通の娘が大家庄領家となったと思われるが、すでに五〇才を超えていたと思われる。
 益田庄について補足すると、皇嘉門院から異母弟兼房に譲られた。兼房は兼実の四才下の同母弟であるが、才気には欠けていたようで、太政大臣に補任され五年間在任したが名誉職以上のものではなく、兄兼実が失脚した建久七年一一月二八日に辞職し、正治元年に四七才で出家し、その一八年後に六五才で死亡した。
 兼房の子兼良は父の出家と入れ替わるように非参議公卿から権中納言となり、その三年後には大納言に進み、七年間在職したが、本来あるべき後継者が公卿になることがなかったためであった。兼長という名が知られるが、経歴は不明である。編纂所データベースで検索すると、後世の『師守記』に引用された建仁二年閏一〇月二〇日の任大臣節会に「権大納言藤原兼長」がヒットするが、これは父兼良の誤りである。兼良は一方では正治二年三月六日には兼実の娘任子の中宮大夫に補任されたが、六月二八日には院号宣下によりその任を解かれている。
 以上のように、益田庄の本家であった兼房-兼良父子はそれぞれ太政大臣、大納言に補任されたが、ともに名誉職的なもので、権力とは無縁の存在で、兼良の子で公卿に進むものはなかった。このため、兼良が承久二年(一二二〇)に出家し、翌年一月に死亡した後は、兼良の弟で園城寺長吏となった道誉(一一七九~一二四〇)が継承し、次いで園城寺長吏の後任である九条道家の子狛僧正道智が継承した。この道智については、彼を祀る南禅寺高徳庵(最勝院)の寺傳(そのものは未見)からより詳細な経歴が判明した。道智は九条道家の子として建保五年(一二〇七)に生まれ、園城寺道誉に師事したのちに南禅寺の北にある禅林寺(後に後嵯峨天皇の離宮が竣工)の住職をへて圓城寺長吏となった。寛元元年に天皇の護持僧となり、文永六年三月三日に五三才で死亡している。益田庄に関する新出史料=文永六年(一二六九)四月一二日法橋範政書状の内容と合致している。天台密教の法力により白馬にまたがり生身を天空に隠したという伝承から狛僧正と呼ばれた。
 以上のように、大家庄と益田庄の庄園領主はともにその家としての権勢が続かず、仏門に入った人物(興福寺や延暦寺の関係者)が継承した。

2021年4月21日 (水)

大家庄の領家3

 大家庄は忠通ないしはその娘皇嘉門院を本家として成立した。次いで皇嘉門院領の大半を譲られた九条兼実が本家となったが、区分の上では最勝金剛院領を構成する所領となった。兼実は元久元年には所領を後鳥羽天皇の中宮で院号宣下により宜秋門院となった娘立子に譲り、そこでは最勝金剛院領ではなく、女院庁分御領に位置づけられた。建暦二年に女院が院号を辞すると、領家でもあった九条良平が本家を兼ね、立子が死亡する(一二月二八日)直前の暦仁元年一二月一四日に成恩院に本家職を施入した。
 領家職は良平、高実、忠基と継承され、弘長三年二月に忠基が死亡した後はその母である藤原経通の娘が領家となった。その後を考えるヒントとなるのは、娘が父経通から継承した越前国小山庄を忠基の子円雄(興福寺で修行)が継承していることである(嘉元四年亀山院領目録)。関係文書は興福寺一条院文書として残っている。大家庄領家職もやはり仏門に入った忠基の子によって継承された可能性が高い。結果として領家職は九条家を離れ、仏門関係者により継承されたと思われる。
 大家庄領家発給文書としては建治三年一〇月九日沙弥上蓮奉領家某袖判御教書(益田家文書)と嘉暦三年四月一五日領家某袖判御教書(吉川家文書)がある。

2021年4月18日 (日)

大家庄の領家2

 行輔は系図では「従四位下美濃守」とあるが、建久六年(一一九五)八月一三日には出家している(『三長記』)。二二才であるが、所労により出仕していなかったとあり、この後間もなく死亡した可能性が高い。また、この前後の美濃守の補任状況からすると、文治年間に美濃守となり、出家の時点では前司であった。このため、頼輔の娘を母とする九条良平が大家庄領家職を継承した可能性が高い。曆仁元年一二月一四日に良平・高実父子が成恩院に施入(寄進)した庄園の中に石見国大家庄がみえるのはこのためである。次いで高実と権大納言藤原経通の娘との間に生まれた忠基が領家を継承したと思われる。
 問題はこれ以降で、参議兼検非違使別当にまで進んだ忠基が弘長二年(一二六二)閏七月一三日には職を辞し、翌年二月五日には死亡している。三四才であり、後継者が成人に達していなかったことが想定される。系図には忠基の子として男子七人が記されるが、六名は仏門に入っている。そして残る一人良澄は、祖母所帯の文書を勝手に処分し逃亡したために祖母から義絶されたとされる。忠基の死後、その母である経通の娘が所領の管理にあたったと思われるが、忠基の子で公卿になるものはなかった。祖母以外の経通の子をみると、僧侶となったものと藤原敦通の子から養子に入った氏通のみ記されており、祖母が経通領も継承していた可能性が高い。ということで、経通の娘以降の大家庄領家は現時点では不明とせざるを得ない。なお未確認の点があり、後日、その調査結果を述べたい。

大家庄の領家1

 大家庄関係者の系図については、コロナが一段落したところで、編纂所に行って確認する予定だが、以前、皇嘉門院から大家庄領家に補任された藤原頼輔について、訂正した。その続報を述べる。それまでは藤原北家忠教の子頼輔に比定していた。忠教は中宮聖子の大夫も務めており、その関係かと思ったが、実際には藤原顕輔の子頼輔であった。顕輔は顕季の子で長実・家保の同母弟である。長実の晩年の娘得子を寵愛した鳥羽院はその兄弟姉妹(ただしその甥は美福門院知行国の国守に起用)には厳しい態度を取ったが(何度も述べた様に崇徳天皇が行ったものではない)、家保と顕輔の子達は優遇している。その代表が家保の三男家成であり、参議止まりであった家保を超えて大納言にまで登用した。家成の同母兄である長男顕保に対して家保が修理大夫を辞して譲ろうとしたが、家成が介入してその人事を潰した。異母兄である二男家長は公卿にはならなかったが、受領を歴任し、多数の鳥羽院庁下文の署判者としてみえている。ただし、家成との間は険悪であった。顕保についても性格が悪かったとする日記の記述もある。
 顕輔は白河院により昇殿を止められたが、その死後は復権している。顕輔は15才時の子である清輔との関係はよくなかったとされるが、39才時と42才時に家女房との間に産まれた重家と季経を重視し、両人は摂関家に仕える一方で院政下で昇進し公卿となった。家成の娘を妻とした重家の人事はある時期、美福門院分国の国守と連動しており、美福門院との関係も有していた。
 頼輔は顕輔と藤原盛輔の娘との間に生まれた。その姉妹には頼長の母がおり、異母兄顕憲も頼長に仕え、その子二人が保元の乱で配流処分を受けている。
 こうした背景のもと、頼輔は藤原忠通の子聖子(皇嘉門院)とその異母弟で聖子の猶子となっていた九条兼実の側近となり、頼輔の娘(皇嘉門院女房)が兼実との間に良平を生んだ。頼輔の子基輔も兼実の側近として兼実知行国美作・伯耆・安芸で国守を務めている。大家庄領家職は頼輔から子基輔に継承されたと思われる。問題はその後である。基輔は元暦二年(一一八五)六月三日に「忽然而逝去」し、兼実を悲しませている(『玉葉』)。その時点では父(頼輔)と母は健在であったが、残された行輔は一二才であった。兼実は六月一〇日に源資賢が辞退したことで知行国として得た和泉の国守に行輔を起用し、文治三年一二月八日には行輔を兵衛佐に申任じている(『玉葉』)。
不記:長野庄ではなく大家庄の勘違いであり訂正。

 

2021年4月17日 (土)

モニター四画面

 モニター三画面で使用してきたが、しだいに字の大きさが気になるようになった。4K27インチのモニターは縦の短さが不足ぎみである。かといって4K42インチは、重さ、価格、視点の移動範囲の広さに難があり、4K32インチも横方向の設置面積が不足する。そこで24インチWUXGA(EIZO製一台は所有)縦二枚を検討していたら、Lenovo製の22.5インチがあることを知った。現在直販で購入すれば二台三万三千円で、24インチ一枚より安価で、評判も悪くない。最初見た時点では品切れであったが、翌日には購入可能となったので二台購入した。夜注文してその三日後の朝には到着した。
 先に難点を云えば、HDMIとDPにDVIなら良かったが、アナログVGAの組み合わせである。また、スピーカーはない。いずれも当方には問題とはならないし、値段からすれば上々であろう。当然、視野角の広いIPS液晶である。照度とコントラストを下げたが、なお明るい気がしたのでネットでマニュアル(製品添付版は大変簡単)を確認すると、ブルーライト低減が可能とあり、設定するとやや黄色がかった感じがしたが、目には優しくなった気がする。フリッカーフリーについても言及されているが、肝心の設定方法が記されていない。なお、メイン機はDell製であるが、ビデオカードはGTX1060のメモリ6G版で四画面に対応していた。当方はゲームはしないので、補助電源不要の1050でもよいが、1050で四画面というのは一部の機種のみで、1060は四画面が標準である。
 ということで4Kに替えて2台設置したが、一台は縦、もう一台は縦(逆)に設定した。フレームが薄い上辺が境を接する形である。縦にすると、1920×1920のEIZOの製品と液晶部の高さが同じで、1920×2400(1200×2)となった。見開き2頁の史料(国会図書館デジタルの日記など)を1頁ずつみるのには都合がよい。4Kモニターでは上下2段組の一方をみていたが、上下ともみることが容易となった。4KモニターはDellが最初に(2104年末)七万円弱で売り出したタイプで、悪くはないが、スリープから回復しないことがあり、その度に電源のオフ・オンが必要で、且つ画面の再配置が必要であった。なお、現在のところ四画面の使い勝手は良好である。

2021年4月16日 (金)

トリチュウムの海水への排出

 福島原発からトリチュウムを含む汚染水を海に排出することが問題となり、さまざまな意見が出されている。右翼桜井よし子氏は、「年間のトリチウムの海洋放出量が韓国が136兆ベクレル、中国が42兆ベクレルに対し、日本は最大22兆ベクレルとなるデータを示した」上で韓国と中国を批判している。そこで正確なデータで確認してみた(以下のデータで約は省略)。
 産経新聞が、経済産業省のデータによると、2016年に韓国では液体で17兆ベクレル、気体で119兆ベクレルを海洋と大気中に放出したとしている。ここから桜井氏の引用がいつものように我田引水であることが露顕する。またそれは脱原発を打ち出した文政権以前のもので、現在のデータではない。ちなみに、東日本大震災により全国の原発が停止する以前に、日本で海洋に放出されていたトリチュウムは事故前5年間の平均で年380兆ベクレルである(出典 JNES「原子力施設管理年報」)。JNESとは2003年設立の独立行政法人原子力安全基盤機構で、2014年に原子力規制庁に統合された。
 個々の原発のデータをみると、原発のタイプで大きな差があるようで、停止するまでの11年(2002~2012)の合計で1位佐賀・玄海826、2位福井・高浜574.8、3位愛媛・伊方569.8、4位鹿児島・川内413(単位はテラ[兆]ベクレル)がダントツに多い。いずれもPWR(加圧水型)であり、BWR(沸騰水型)の福島原発は12.08(第一)と10.17(第二)で、島根原発は4.30である。ちなみに韓国は16基いずれもPWR型(中国も)である。
 以前から海水に排出しており問題ないとの意見も出てくるかもしれないが、前提条件をみておく必要がある。今回は廃炉にむけて30年間かけて薄めて排出するとするが、30年で廃炉が終わる可能性はゼロである。廃炉作業の中では大量の核汚染物質が出てきて、その処理も問題となる。海洋への排出によって減少する量よりはるかに多量であるが、その点については言及されていない。またその内にトリチュウムを多量に排出していたPWR型原発の使用期限がきて、こちらの廃炉も始まってくるので、福島だけの問題ではない。薄めて排出することの問題点も、過去の公害対策で問題ありとされてきた。薄めても排出量には変わりが無く、核物質のように半減期の長いものについては、1年単位ではなく100年、1000年単位で考えなければならない(1000年たつと2011年並の大震災が発生する。ただしトリチュウムそのものは半減期12年と短い。)。当方もついさきほど調べて認識したものであり、天に唾をはかないうちに、筆をおく。
 付記BWR 原子炉としては単純な構造であるが、炉心で核燃料に接触した水の蒸気を直接タービンに導くことから、タービンや復水器、蒸気配管などが放射能汚染され、耐用年数終了時に発生する放射性廃棄物が加圧水型原子炉 (PWR) より多くなり廃炉コストが嵩む可能性が高い。また、その汚染のため作業員の被曝量が加圧水型原子炉よりも多い(安斎育郎 『放射線と放射能』)。

2021年3月31日 (水)

通季と信通

 待賢門院璋子の同母兄には西園寺通季と德大寺実能がいるが、通季が大治三年(一一二八)に三九才で死亡した事が閑院流内の問題のみならず、鳥羽院と崇德天皇のその後に大きな影響を与えたが、ここでは通季とセットで記録に登場することが多い、藤原信通を併せて確認する。
 信通は白河院に重用された中御門流宗通と藤原顕季の娘との間に寛治五年(一〇九一)に生まれた。宗通は持明院基頼より二九才、中御門宗俊より二五才下で父俊家晩年の子であったがため、一二才で父を亡くし、幼いころから白河院のもとで育った。同母弟には伊通(二才下)、季通、成通(六才下)、重通(八才下)がおり、季通以外の三人は父宗通の正二位権大納言を超えて正二位大納言以上(伊通は太政大臣)まで進んだ。また同母姉(一才上)の宗子は藤原忠通との間に崇德天皇中宮聖子を産んでいる。
 通季は信通の一才年長であるが、嫡子公通を産んだ藤原忠教の娘とともに、顕季の嫡子長実の娘を妻としていた。通季が承徳二年(一〇九八)正月に九才で叙爵したのに対して信通の叙爵はその二年後で十才時であった。これ以降も一才年長の通季が一年~三年先行して昇進している。蔵人頭補任は通季が三年早かった(天永二年)が、通季の参議補任と同時に蔵人頭となった信通はそのわずか四ヶ月後に参議に補任されている。従三位に叙せられたのは両方とも永久五年(一一一七)一一月であった。
 信通はその三年後の保安三年に三〇才で死亡し、次弟伊通がそのポジションを継承して出世していく。通季は正三位権中納言にまで進んだが、白河院より一年早く、大治三年に三九才で死亡した。通季の一一才年長の長兄実隆と一〇才年長の次兄実行はともに藤原基貞の娘を母としていたが、待賢門院璋子の同母兄通季が出世のトップに立っていた。この通季が死亡した前年には長兄実隆も死亡しており、閑院流内部では実能と一六才年長の異母兄実行のいずれが中心となるかが問題となった。
 白河院が死亡した大治四年時点の現職公卿をみると五~六〇才代が一四人、二~三〇代(忠通、有仁、雅定、実能、伊通)が五人と中核となる四〇代が一人もいない。通季と信通が健在であれば、四〇才と三九才であり、まさに鳥羽院政を主導する立場となったことは確実である。これに替わって鳥羽院政下で重要な役割を与えられたのは、勧修寺流の中心となった顕頼(顕隆子、鳥羽院より九才年長)であり、鳥羽院より四才年少の家成であった。鳥羽院が早くから政治の主導権を確保できたのもこのためであった。両人が健在であれば、崇徳天皇の伯父ならびに、中宮聖子の叔父であり、その後の歴史は大きく変わったであろう。

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