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2021年6月 1日 (火)

続モニター4画面

 セカンドPCは自作で、当初は省電力版のcorei7 3770Tで組み立てた。その後、ノーマルの3770を搭載したメーカー製SFFタイプのPCを入手したので、CPUを交換(相博)した。当初のビデオカードはradeon3770(補助電源が必要)で、4Kモニターを初めて利用した。ところが、その後砂嵐状態となりメーカーに送るが、一度目は何も変わらず、二度目でようやく正常となった。故障中にNvidiaGT740を代替で購入した。その後、radeon360をへて、GTX1050を利用していた。前述のように、こちらはモニターは三台までである。4画面になれてしまうと、3画面では使えない。4画面は歴史の作業でこそ必要で、その他の利用なら、3画面以下で十分だが。
 そうした中、メインPCで今昔文字鏡が正常に表示されないようになり、歴史の作業を文字鏡が正常に動作するセカンドPCで行おうとしたが、問題は3画面である。メインPCと同じGTX1060を含め4画面が可能なカード(GTX1650,1660)を検討したが、新品ないしは状態の良い中古はいい値段がしている。二年前なら新品が三万円強で購入可能だったが、現在では六万円前後する。で、ネットで調べると、ビデオカードを二枚挿すことが可能なようだ。そんなに前のものでなければメーカーが異なっても可能とあったので、最近は出番のなかったradeon360をダメ元で試すと、問題なく利用できた(途中一部トラブルもあった)。両方とも補助電源を必要としない。自作なので電源にも余裕がある。当方はゲームをしないので、これで十分である。試さないが、これで3+3=6台のモニターが接続可能となった。当面はこれで利用していく。たまに、Atokの辞書にはない漢字が有、文字鏡は必要である。ただし、ネット上のサポートサイトはすでに消滅しており(半年前には存在し、新たなフォントをダウンロードしてインストールできたが、今はない)。メイン以外のPCでも利用がいつまで可能かはわからない。

2021年5月31日 (月)

播磨守藤原隆親をめぐって

 藤原忠隆の孫(嫡子隆教の子)隆親については本ブログで何度か述べているが、播磨守退任時期と藤原重家の太宰大弐補任時期の関係について確認する。後者は承安元年一二月であり、問題は前者である。五味文彦氏は同時とされたが、『播州増位山随願寺集記』に清盛が仁安三年に播磨国知行国主となったとあり、本ブログでは隆親の退任は仁安三年(一一六八)と考えた。
 播磨守隆親の終見史料は『兵範記』同年三月八日条であり、高倉天皇の即位の儀式が行われた大極殿青龍白虎楼以下の御覧修造を播磨守隆親が知行国主松殿基房のもとで勤仕している。その後、重家の大弐補任までの播磨守関係史料は『兵範記』同年四月一三日条のみである。記主平信範が、基摂政基房が就任御初めて行った賀茂詣を近衛桟敷で見物していたところ、そこに1)花山院中納言、2)皇太后宮権大夫、3)修理大夫、4)武蔵中将、5)播磨守等がやって来たことと、それは6)左衛門佐の好み(発案)によるものだと記されている。直感的にすべて平氏関係者ではないかと思い、確認した。2)は皇太后宮滋子に仕える平宗盛、3)は平頼盛、4)は左近衛権中将に昇進するとともに、武蔵守から武蔵国主に転じた平知盛である。1)も二月一七日の除目で権中納言に昇進したばかりの花山院兼雅で、5)はその父忠雅の同母弟で『山槐記』の記主である中山忠親である。
 兼雅の父忠雅は一〇才で父忠宗が死亡したため、母方の実家である藤原家保邸で、一七才年長の叔父家成とともに育った。兼雅の母も家成の娘である。そして兼雅は平清盛の次女を妻とした。その間に長子(九条兼実の子良通の妻となる)が生まれたのは見物の二年後(一一七〇)である。
 家成の嫡子隆季は、待賢門院・崇徳院との関係が深く、鳥羽院政下では寵臣であった家成の子としては出世は遅かった。保延三年(一一三七)一月以来長らく左馬頭(久寿元年三月に一時停任)に留め置かれていたが、その地位も保元の乱の恩賞である左馬権頭のポストに不満を持った義朝に譲らざるを得なかった。鳥羽院の死と崇徳院の配流、後白河天皇即位により若干改善したが、天皇に寵愛されたのは異母弟成親であった。そうした中、平治の乱後、妹経子が平清盛の嫡子重盛の妻となったこと(長子清経誕生は一一六三年)で、平氏との関係を強める。隆季の嫡子隆房と清盛の娘との間に隆衡が生まれたのは承安二年(一一七二)であった。異母弟成親は鹿ヶ谷の陰謀(一一七七)発覚で殺害されるが、隆季と同母兄崇徳院の死亡に際し何もしない後白河院の関係はずっと悪く、寿永二年(一一八三)一月一日には、後白河院が帥入道隆季の知行国備後国を没収している。そこには隆季を「素院御気色不快之人」と記している。
 隆季は清盛との関係を強めたが、崇徳院関係者を親戚と呼ぶ頼朝が幕府を開いたため、却ってその一族の地位は向上した。話を戻すと、以上により仁安三年四月一三日に摂政初賀茂詣を近衛桟敷で見物した「播磨守」が藤原隆親ではなく、平氏関係者であったことは明白であろう。三月八日から四月一三日の間に播磨守は交替し平家知行国となった。ただし国主は清盛ではなくその子宗盛であった可能性がある。五味氏は藤原重家が大弐となった承安元年一二月以降に播磨国は宗盛知行国となったとされていた。

 

2021年5月25日 (火)

藤原忠通の結婚

 この問題については、父忠実が、白河院の養女となっていた璋子との縁談を固辞したことが有名である。忠実の日記『殿暦』には璋子の素行について記されているが、この時点(一一一五)で璋子は一五才であり、噂の虚実は不明である。何より璋子は鳥羽天皇に入内している。また、璋子と養父白河院をめぐる角田文衛氏の大胆な説は成立しないことが明白となっている。
 忠通にはすでに藤原基信の娘との間に長子恵信が生まれていた(一一一四)が、忠通が正室として藤原宗通の娘宗子と結婚したのは元永元年(一一一八)一〇月であった。宗通は白河院の寵臣として知られ、鳥羽天皇中宮となった璋子の中宮大夫をつとめており、璋子の子崇德天皇に忠通と宗子の娘聖子が入内している。璋子は白河院の人事をめぐる介入に対して苦言を呈することができる存在であった。
 ということでこの問題を客観的にみると、璋子は閑院流公実と光子の末子(娘)であるのに対して、宗子は宗通と藤原顕季の娘の長子(娘)である。公実は鳥羽天皇の即位に際して摂政の地位を望んだが認められず、忠実が堀河天皇の関白に続いて幼帝鳥羽の摂政となった。公実は忠実より二五才年長で、璋子の同母長兄通季は忠通より七才年長、異母長兄実隆に至っては忠実の一つ下にすぎない。これに対して、宗子の同母兄弟は忠通より六才年長の信通から二才年下の重通まで五人いたが、すべて宗子の弟であり、形の上で忠通は義理の兄となる。宗子は忠通より七才年長で、結婚時には二九才であった。宗子の結婚が遅れた理由は不明である。
 忠通が璋子を室とした場合は、年長の義理の兄に取り囲まれたのに対して、宗子の場合は義理の弟として対応できる。また閑院流が道長の祖父師輔の子公季を祖とする遠い親戚であるのに対して、宗通の祖父頼宗は道長の子であり、分家的存在である。このあたりが、忠実が璋子ではなく宗子を忠通の正室とした客観的背景ではなかったか。
 忠通と宗子の間には結婚して二年後の保安元年(一一二〇)九月二四日に長女が誕生した。一月後の一〇月二六日には父忠実が養女としているが、その後の動向は不明で、早世した可能性が高い。この年の五月には忠実の三男頼長(長男は早世し、忠通が二男)が生まれている。忠通と宗子の間の唯一の子と言われることがある聖子は保安三年の生まれである。
 宗子は久寿二年九月一五日に六六才で死亡している。終生忠通の正室として尊重されていた。忠通は異母弟頼長を養子としたが、宗子の年齢が五〇才を超えると、康治二年(一一四三)の基実以降立て続けに子が生まれている。宗子への遠慮があったのであろう。藤原頼通ですら正室以外が生んだ男子は養子として他家に出すか、寺に入れていた。結果として頼通の後継者となったのは五一才時に生まれた師実であった。表面的な情報のみであるが、まとめると以上のようになる。

2021年5月23日 (日)

阿波守藤原保綱2

 行康はそのもとに乱入した斎宮召使を蹂躙したとある。この事件について『百錬抄』では二四日の記事として、信濃、阿波雑掌が斎院下部を陵礫した下手人であるとして、使庁が伊通卿と教長等を譴責したと記している。阿波国は教長の知行国であったことになるが、五味氏の表では、阿波国は德大寺公能の知行国と推定されている。斎院、斎宮の役を国司が未進したことにともなう事件であろう。ということで、中原頼盛の扱いと、阿波国知行国主が誰であったかが問題となる。
 保綱は崇德院の側近として保元の乱で処罰された実清の子である。これも五味氏の表には漏れていたが、父実清が前任者の死亡により短期間ではあるが近江守となり、それを退任して近江国が忠実知行国となった直後に実清の子保綱が阿波守に補任されている。保綱の前任頼佐の時期は德大寺実能の知行国と五味氏は解釈され、保綱の時期は実能の子公能が国主であるとされた。実能は崇徳院の伯父であり一理はあるが、頼佐は崇徳院判官代でもあった。実能の知行国が崇徳側近実清に譲られたとの解釈ができるのではないか。
 ただし、当時の崇徳院の立場は強いものではなかった。崇徳の父鳥羽は白河院政下では新院分として国司補任枠を有していたが、鳥羽院はみずからの一院分とともに新院(崇徳)分も廃止してしまった。一旦、阿波守を交替した保綱は今度は藤原教長分として阿波守に再任されたのではないか。国司に補任されてすぐに重任を認められる例も存在している。ところが、事件が起きてしまったのである。その結果、保綱は阿波守を解任されたが、清通はその後も信濃守に留まっている。知行国主であった伊通(その姉妹は忠通の妻で、皇嘉門院の母)と教長の立場の違いとも考えられるが、もう一つ、当時の西国では暴風雨により飢饉が発生していた。『本朝世紀』一月二六日条には近江から中四国にかけての一一ヶ国等から去年の失損に伴い去年分の済物を免除することを求めた申請が出されているが、その中に阿波国も含まれている。造営の約束により重任功を認められた保綱と阿波国住人の間のトラブルも発生していたのではないか。ということで、保綱の初任時は父実清が、再任時は藤原教長が阿波国主であったと考えたい。教長もまた、保元の乱で崇徳院のもとに参陣し、配流処分を受けた。その学識は高く評価され、欲のない人であった(『台記』)。処分が解除されると藤原光能(この人物が待賢門院・崇徳院流に属することは何度も述べてきた)に働きかけ、讃岐院から崇徳院に名称が変更され、崇徳院の除霊施設が設けられるきっかけをつくった。

阿波守藤原保綱1

 崇徳院の第二皇子誕生に関係する記事がないかと、史料総覧作成記事の同年分を参照した。従来は、当該年の院、天皇、摂関名で検索していたが、これだと連続して閲覧できない。偶然、編纂所所蔵史料データベースで「大日本史」(大日本史料でも)で検索していて、作成記事がすべてヒットすることを知った。
 従来は同年九月二八日に熱田大宮司季範の子範忠が式部丞に補任されたのが、第二皇子誕生をうけてのものであろうと推測できた。皇子を産んだ女性=崇徳院参河権守の母と頼朝の母は範忠の姉妹であった。直接的史料ではないが、一〇月一四日に九才の孫王(雅仁親王子)が為信法親王の弟子として仁和寺に向かっている。父方の閑院流である三条公教、德大寺公能や母方の藤原経宗が扈従している。
 近衛天皇は同年初めに譲位の噂が流れるなど、健康面での不安を抱えていた。そうした中、崇徳院に長子重仁に続いて第二皇子が誕生したことで、雅仁のみならず、その子孫王の存在意義は決定的に下がったと思われる。とはいえ、第二皇子の健康面の実態には一定期間たたないと不明な点もあった。
 話を阿波守保綱に戻すと、久安三年一月二八日に保綱が藤原頼佐の後任として阿波守に補任されているが、その一年後には中原頼盛が阿波守に補任されている。保綱の在任期間は一年であったが、これに続いて、仁平元年二月一日には阿波守保綱が建物造営による阿波守重任を申請し、宣旨により認められている。次いで七月二四日には保綱が阿波守を解官されている。いずれも『本朝世紀』の記事である。五味氏の受領表では頼盛補任の記事はリストアップされず、久安三年に補任された保綱が仁平元年に重任を認められたが、何らかの理由で七月に解任されたと解釈されている。仁平二年二月には藤原成頼が阿波守に補任されているが、保綱解任と成頼補任の間に国司のポストが空席であったのかは不明である。
 保綱解任と関係しそうなのが、仁平元年八月二六日に検非違使が大納言伊通と参議藤原教長宅に派遣され、(賀茂)斎院使と(伊勢)斎宮使に濫妨を働いた下手人として、少監物藤原仲盛と縫殿大夫行康を拘束している。内容に少し理解が難しい点があるが、仲盛は伊通のもとで執行として沙汰にあたっていた信濃国で斎院召使に濫妨を働いた。当時の信濃守は伊通の子清通で、伊通が知行国主であった。五味氏の受領表の信濃国分は作業はこれからであるが、そのように解釈されている。

 

2021年5月17日 (月)

嘘も積もれば‥‥

 受領表は安芸国が終わり、阿波国へ入ったが若干気になっていた点を再確認した。それは承安三年二月日安芸国司庁宣並びに同日厳島神主佐伯景弘解状に付された国司の外題安堵である。『平安遺文』で編者竹内理三氏が国司高階朝臣に「成章」という注記を入れ、広島県史もそれを踏襲している。ただし、この時期に安芸守高階成章という人物は存在しない。過去に「成章」と「盛章」はいたが、世代が違い死亡している。当然、広島県史は確認すべきであるがしていない。「某」(比定者不明)とするのが正解である。この前後の受領経験者では高階信章と俊成が可能性がある程度である。信章は周防守在任時に藤原経家と衝突し、信章は解官、経家は叙籍処分を受けている。その後の任官の記録は不明だが、治承二年正月二七日には従四位上に序せられており、安芸守に補任された可能性は十分にある。一方、俊成は摂関家家司で仁安二年には対馬守に見任している。
 広島県史も問題だが、『国司一覧』が上記二点の史料を根拠に、高階成章が安芸守であったとしている。『中世史ハンドブック』(担当は飯田悠紀子氏)も同様である。後者はおまけに、その後任を藤原保房としている。安元一年一二(一一ヵ)月と二年二月、七月の三通の国司庁宣はいずれも「大介藤原朝臣」が奥上判を加えている。これに対し保房が安芸守に補任されたのは治承二年一二月二四日であり(この記事は広島県史に収録されている)、別人である。平安遺文と『国司一覧』でも人物の比定はされていない。広島県史は飯田氏の見解を鵜呑みにして三通の署判者を保房とし、後日発行された年表でもそうなっている。
 当方は五味文彦氏作成の受領表の加筆、補訂を行っているが、さすがに五味氏は「高階某」「藤原某」としている。このように研究のレベルが低いので、五味氏の表を公開する必要があるのである。実例はやまほどある。当方は院政期から戦国期(さらには江戸期)までの史料を扱うが、より熟練しないと論文が書けないのは中世前期であり、後期はそこまでいかなくても論文を書くことは可能である。問題は難易度の高い前期を専門とする若い研究者が少ないことである。大学で三年次に国史学科に進んだが、オリエンテーションで近代を専門とする院生が、近代史なら四年になってからでも卒論がかける(経験一年でとの意味)と勧誘していたのを思い出す。個人名は憶えているが、必要ないので省略する。
 先行研究に誤りが含まれていることは当然ある。問題なのはそれが訂正されないまま通説となることである。これが「嘘も積もれば‥‥」の意味である。

2021年5月13日 (木)

出雲守季仲について3

 これについては、出雲守季仲は存在せず、高階重仲の誤りだとする大日方克己氏の説を批判したが、もう少し補足しておく。
 大日方氏は天仁元年(実は改元前の嘉承三年)二月二二日に山陵使として嵯峨に派遣される予定であった「元使出雲守藤原季仲」を大日本史料の編者の注記のように顕頼の誤記とするが、顕頼はその一月前に補任されたばかりであることと、「顕頼」を「季仲」と誤記する(即位雑例条々兼日に収録する際)ことは考えられない。柏原に派遣される予定であった「元使下野守源朝臣経兼」、村上に派遣される予定であった「元使肥後守藤原為宣」はそれぞれ「前下野守」、「前肥後守」の誤りであり、「前出雲守」の誤りならありうることである。また「出羽」と「出雲」を誤記した例は存在するので、本来は「前出羽守藤原季仲」(前述のように出雲守退任後しばらく間を置いて出羽守に補任されている)ではなかったか。実際に、嘉承二年八月一七日には尊勝寺等七ヶ寺に没後四七日(初七日に対する表現。五七日の御誦経使は二三日に派遣)の御誦経使が派遣されているが、堀河天皇の埋葬地となった香隆寺に派遣されたのは「前出羽守季仲」と式部少輔有元であった。
 もう一点、大日方氏は重仲の死亡記事に出雲守に補任された八年後に任中公文を済ましたと記されていることをあげるが、これはイコール八年間在任したことを意味しない。寛和五年に季仲の見任が確認できるが、この年の内に重仲と交替しておれば、死亡記事に適合するのである。

2021年4月28日 (水)

伯耆守平国盛2

 問題は国盛の系譜上の位置づけであるが、教盛の二男国盛(教経)は応保元年には二才でしかなく、備前守国盛とは別人である。そこで尊卑分脈で確認すると、時期的には平国兼の子国盛が該当する。分脈には国盛については小野(あるいは北野)判官という尻付しかない。国盛の祖父兼季は上総守に補任されているが、検非違使としての活動が中心である。国兼の兄弟盛兼も検非違使の傍ら、摂関家と関係の深い和泉と佐渡の国守を歴任している。盛兼の子信兼も河内・和泉の国守を歴任しているが、久寿二年(一一五五)年には頼長との間に乗合事件を起こし、父盛兼が頼長に従属を誓う名簿を差し出すという事件を起こしている。そして信兼の子で義絶され赴いた伊豆国で目代となり、頼朝の挙兵で血祭りにあげられたのが山木判官兼隆である。
 ということで、備前守に補任された平国盛は国兼の子と思われる。国盛の従兄弟信兼は治承・寿永の乱時には出羽守在任中であった。国盛は永万元年七月一八日に備前守を退任し、備前国は邦綱の知行国となって子隆成が国守となった。その一三ヵ月後の仁安元年八月二七日の除目で国盛は伯耆守に補任されたが、翌年二月七日には伯耆国は平時忠の知行国となり、その異母弟親宗が国守となっている。国盛は邦綱と同様、摂関家と平家(基実と清盛は連携)の両方と関係を持っていたと思われる。仁安四年一月一一日の除目(兵範記)にみえる「民部権大輔平国盛」は備前・伯耆守国盛と同一人物であろう。
 本稿は五味文彦氏作成の備前国受領表の内容(平国盛とその関連史料)を再確認したものである。新たに加えたのは国盛の系譜上の位置づけである。国盛が伯耆守在任中の伯耆国は平氏知行国かどうかは微妙である。
付記:教経の別名ではなく、兄に国盛を記す系図の存在について教示を得た。再検討した結果、すべて教盛の子国盛に訂正する。系図では通盛の弟という位置づけだが、国盛の備前守補任は除爵を前提とする。通盛は国盛が備後守に補任される一年前に叙爵しており、年の近い異母弟であろう。

伯耆守平国盛1

 伯耆国受領表の作業時には気付かなかったが、当該の人物の系譜上の位置づけについて変更が必要となった。平教盛と日野資憲の娘との間に生まれた二男教経の初名が国盛であったため、伯耆国司国盛をこれに比定したが、備前国受領表作成により、平国盛がもう一人いることに気付かされた。それは応保元年四月三日に備前守に補任された平国盛である。補任時の除目表は残っていないが、摂関家有力家司藤原邦綱がこの日に越後国から伊予守に遷任している。伊予守はそれまで清盛の嫡子重盛が国守で清盛の知行国であったが、清盛の知行国が備前に移動している。『愚管抄』によれば、後白河院が備前国を清盛の知行国として御願寺蓮華王院を造営させ、長寛二年一二月一七日に供養が行われた。造営は伊予国が知行国の時点から開始されているが、造営を名目に備前国で知行国の継続が認められたのであろう。
 そして供養の日に清盛の嫡子重盛が正三位に叙せられているが、それは蓮華王院を造営した国司の功を譲られたものであった。最初に確認した史料編纂所データベースの重盛死亡時の史料総覧の記事(それまでの公卿補任の記述がまとめられている)には国司清盛から譲られたとあり、とまどったが、五味文彦氏『平清盛』で確認すると、「清盛」は「国盛」の誤りであった。国会図書館デジタルの公卿補任、重盛が正三位に叙せられた際の史料総覧の記事も「国盛」となっていた。たまたま、最初にみた記事が誤っていた。
 前に述べたように、越後守邦綱は忠通知行国の国守であったが、伊予守邦綱は独立した忠通有力家司として支配であった。越後は忠通の知行国のままで、国守は過去に忠通知行国備前の国守であった源信時であった。

2021年4月22日 (木)

益田庄の庄園領主3

 大家庄とともに以前に述べた表記の点についても補足する。
 大家庄については曆仁元年(一二三八)一二月に九条良平・高実父子が成恩院に施入した中にみえていた。その直後に元宜秋門院であった異母姉立子が六七才で死亡したことはすでに述べたとおりであるが、良平も翌二年正月一九日に太政大臣を辞して出家し、出家の一年二ヵ月後には五七才で死亡している。子高実は権大納言であったが、父出家の一二日前に仗座で意識不明となり、なんとか蘇生したが、二月二三日には権大納言を辞して民部卿に転じている。健康面の問題であろうが、仁治元年正月二二日には民部卿も辞して散位となった。良平の死はその二ヵ月後であり、高実の嫡子忠基は一一才であった。さらに高実は仁治三年三月一七日には出家し、一八才となった忠基が非参議従三位に叙せられた寛元五年(一二四七)正月の一年七ヵ月後には三二才で死亡した。
 後ろ盾のない忠基はながらく非参議に止められ、ようやく弘長二年(一二六二)正月二六日に参議となり、三月二九日には従二位、七月一六日には右衛門督・別当に補任されたが、その直後に所労により別当を辞し、一二月二一日には参議と右衛門督も辞している。健康面に問題があり、最後にアリバイ的に補任されたものであろうか。翌三年二月三日に出家し、五日に三四才で死亡している。こうした中で、忠基の母である藤原経通の娘が大家庄領家となったと思われるが、すでに五〇才を超えていたと思われる。
 益田庄について補足すると、皇嘉門院から異母弟兼房に譲られた。兼房は兼実の四才下の同母弟であるが、才気には欠けていたようで、太政大臣に補任され五年間在任したが名誉職以上のものではなく、兄兼実が失脚した建久七年一一月二八日に辞職し、正治元年に四七才で出家し、その一八年後に六五才で死亡した。
 兼房の子兼良は父の出家と入れ替わるように非参議公卿から権中納言となり、その三年後には大納言に進み、七年間在職したが、本来あるべき後継者が公卿になることがなかったためであった。兼長という名が知られるが、経歴は不明である。編纂所データベースで検索すると、後世の『師守記』に引用された建仁二年閏一〇月二〇日の任大臣節会に「権大納言藤原兼長」がヒットするが、これは父兼良の誤りである。兼良は一方では正治二年三月六日には兼実の娘任子の中宮大夫に補任されたが、六月二八日には院号宣下によりその任を解かれている。
 以上のように、益田庄の本家であった兼房-兼良父子はそれぞれ太政大臣、大納言に補任されたが、ともに名誉職的なもので、権力とは無縁の存在で、兼良の子で公卿に進むものはなかった。このため、兼良が承久二年(一二二〇)に出家し、翌年一月に死亡した後は、兼良の弟で園城寺長吏となった道誉(一一七九~一二四〇)が継承し、次いで園城寺長吏の後任である九条道家の子狛僧正道智が継承した。この道智については、彼を祀る南禅寺高徳庵(最勝院)の寺傳(そのものは未見)からより詳細な経歴が判明した。道智は九条道家の子として建保五年(一二〇七)に生まれ、園城寺道誉に師事したのちに南禅寺の北にある禅林寺(後に後嵯峨天皇の離宮が竣工)の住職をへて圓城寺長吏となった。寛元元年に天皇の護持僧となり、文永六年三月三日に五三才で死亡している。益田庄に関する新出史料=文永六年(一二六九)四月一二日法橋範政書状の内容と合致している。天台密教の法力により白馬にまたがり生身を天空に隠したという伝承から狛僧正と呼ばれた。
 以上のように、大家庄と益田庄の庄園領主はともにその家としての権勢が続かず、仏門に入った人物(興福寺や延暦寺の関係者)が継承した。

«大家庄の領家3

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